イチロー引退記念口演記録(3)

 幼い頃はどんな子だったかという問いに対し、欠かせないのはよく姉に指摘されていた神経質だったこと。いわゆるバアちゃん子だったものの、祖母の飲んでいるお茶は飲めなかったし、他人が鼻をかんでいると吐き気を催すこともあったほど。大学生になってから変わったと姉に言われたが、あるいはバリケード内の生活のようなバンカラ風のおかげかもしれない。部位の上下にかかわらず毛が落ちていると見逃せない(浅丘ルリ子という女優も同じとのこと)ところは昔から変わらないが、フツーの人が見逃す細々とした物事を覚えていたりこだわったりするのは、神経質の現れだと言われたこともある。読みの指導において「テクストの細部を立ち上げろ」などと偉そうに言っているのは神経質の名残りにすぎない、と思い返してみると全身の力が抜けてしまいそうだ。
 お互い釣り好きで馴染みの理髪師から、肩幅が広いので「ダンナさんは何かスポーツやってるんでしょう?」と聞かれたことがあった。いわゆる部活動は大学までまったく経験していないが、小学四年生から中学二年生まで柔道場に通っていたのでマッチョになったのだと思う。試合が嫌いで初段戦に出ろと言われるようになって止めたのだが、「不良」の中学校でも体格と柔道の圧力で無事を通せた。むしろクラスの小ワルたちとも仲良くやっていて、時には間抜けな担任に対して率先して反抗したこともあった。運動会の練習が大嫌いで、仲間を引き連れて体育館の裏で遊んでいるところを元軍人らしい剣道の教員に見つかり、万事休して一人で謝りに行ったこともあった。軽蔑していたこの体育教員の言うことを素直に聞くフリをしていたおかげで、幸いすぐに許されたのは優等生の特権だったか、それを計算していたらしい当時の自分には愛憎半ばする。他ならぬ自分自身が一番ワルだったのかもしれない。
校長ベッタリの体育教員とは反対に、日教組でガンバッテいた教員もいて生徒の人気はそちらの側にあった。その三人が強制的に学校を移動させられることが分かった頃の学内行事で、三人揃って壇上で小型のほうきをギターにみなして弾きながら、オトナの流行歌を歌い続けたことがあった。苦々しい表情の校長等と裏腹に生徒にはバカ受けしていたが、進歩的な考えの教員がヤケクソになってハメを外してはしゃいでいる姿は醜い(見にくい)ものだった。総じてワル中学校には、褒められる教員も無きにひとしい印象だった。そのせいか前橋高校に進学したら、『青銅』やブログに書いた須関正一という「ボクの好きな先生」(忌野清志郎)をはじめ尊敬できる人がいて中学との落差に驚いた。教員と医者は当たれば天国、外れたら地獄に相違ない。
クラシック音楽を聴きだしたのも中学の頃からだったが、同時に魚とりや蝶採集にも夢中だった。音楽は落ち着いて聴いていられるが、魚や蝶のことを思うとジッとしていられずに、夏休みなどはしじゅう近所を通る私鉄沿線の草場(「草葉」ではない)を漁っていたものだ。魚の方は今につながっているが、蝶を捕って帰ると中学生ながら深夜まで展翅(てんし)しているので親を心配させていたものの、当人は眠気を感じないほど集中していた。展翅は死後硬直する前に形を整える作業だが、根が几帳面なので完成品はいつも美的だった。父の転職のお蔭で余裕ができたせいでもあるまいが、教育熱心な母から塾通いを強いられ、学校の授業の繰り返しでほとんど無駄な時間に耐えた。塾とは別に田村義之先生から英語を個人指導で鍛えられ、お蔭で発音の良さはその後のフランス語にも及び、ヨーロッパ旅行中に英仏人を驚かせた。
 県立前橋高校は一年生が一クラス増えて四七〇人男ばかりというのだから、ベビーブームのすごさが理解できるだろう。短距離のタイムは学年で二番目だったと思うが、長距離走は小学校から続いて大の苦手だった。今でも長距離を走り続ける人間は別の動物に見える。人間走るなら百メートルに限る。それ以上走りたがるのはバカじゃないか、と思ったりする。ジョギング・ブームなど全く理解の外である。
高校生になって魚とりは卒業したものの、続けていた蝶採集もやがて止めたのは勉強がキツクなったせいではない。むしろ中学では取り立てて勉強しなくても優等生でいられたお蔭か、休養十分な大脳が活性化し始めたらしく、フツーに授業を聴いていただけでいきなりトップに躍り出て職員室をビックリさせたらしい。勉強は楽勝だったから蝶を追うのを止める必要はなく、「理由なき反抗」で家族と口を利かなくなったので、蝶採集も自ら禁じたまでの話である。高校時代の家庭内黙秘の鍛錬のお蔭で、この十年ほど自家でテキさんと言葉も交わさない、目も合わさない状況などワケもない。
 県内有数の進学校だったので、受験志向の勉強もすぐに飽きてしまった。学年順位が入学時は三ケタだったのがいきなり一ケタになり、その後は二ケタが多かったというのも吾ながら可笑しい。一年時のクラスに金井広秋という文学・文章の達人がいて、国語の教師もタジタジとなるほどスゴイ奴だった。金井に比べるとヒトとサルほどの違いを感じていたので、自分が将来文学に関わることになるなどとは思いも及ばなかった。しかしなぜか古典文学には惹かれるものがあって平家を通読したり、徒然や枕もかなりの章段を読んだりしたものの、源氏に至って歯が立たずに須磨にも行けなかったのは、注のほとんど無い文庫だったせいでもあったか。ともあれ退職後の楽しみの一つに、源氏の通読を上げているのも本気なのである。和歌も好きな新古今を始めけっこう読んだので、大学で国文科に進学した頃に俊成がむやみと長生きしたこと等を知っていて、近代専門バカの仲間を驚かしたこともあった。近代文学漱石を始めあまり手にしなかったけれど、なぜか「暗夜行路」に挑戦してこれも前篇だけで挫折した。
(続く)