生前の昔の話  叔父のこと

遅ればせながらも、土曜の法事で前橋行のこと。
3日ほど前から少しずつ書いていたのだけれど、明日早朝から釣り部で出かけるので急ぎ完成させておこう。


母方の叔父(末っ子)の7回忌、ボクとの年齢差が大きくないので親戚中では一番気心が知れあった仲、だから時々思い出す人なので、どうせなら遺族の母子と3人だけで懐かしみたい人。
前にも書いたと思うけど、ボクの「和解」論の叔父の位置付け(読み方)はこの叔父が念頭にあったからこそ可能だったと思われる(もちろん跡付け)。
主人公・順吉の気持を一番理解できているし、一方の順吉の父の弟として父の立場にも理解があるという、媒介者的ポジションから父子の和解を促進した存在。
ボクの実家は父の代から浄土真宗だけど(遠い祖先から祖父までは天台宗らしい)、叔父の寺は浄土宗でチョッと差異があるのは、参加者が全員で木魚をたたきながら経を大声で読む点。
ドラムをたたく要領で90度直角にスティックを持ってたたいていたら、今でも腕の筋肉が痛むので重い物を持ちにくい、つい「イテッ!」と声が洩れる。
食事は東京にも支店を出しているといういつもの「とり平」だったけれど、すでに冷えたままのトリや天ぷらだったので期待の味が体験できずに残念だった。
むかし親父の「介護」で週一のペースで前橋に通っていた時には、よく叔母(父の唯一の妹で末っ子)を交えて3人で食べていた時は暖かかったので美味だったのだけど、法事などだと人数が多いから暖かいのは無理なんだネ。
例になく早起きで出かけたためか食欲も無かったせいもあるかな、味覚が鈍かったようだ。
ともあれこの叔父からは、戦後の日本の矛盾を強いられた犠牲者という側面を感じたものだ。
自衛隊の前身である警察予備隊員になったり、実家で自動車修理工として働いたり、消防隊員になった後はホテルの総務としてのポストに納まり、これは定年まで勤めきった。
子供の頃に叔父がパチンコ(といっても太いゴムの反動で小石やビー玉を飛ばす器具)で遠くに立っている細い木を数分間狙った末に放った玉が、見事に気に中った時は凄味(すごみ)があったナ。
予備隊で身に付けた技巧だろうと、その時も感じたネ。
大学入学して2年目の頃に自家の人たちとボクとの和解がなった後は、盆暮れに帰省する度にこの叔父と呑むのが楽しみだったけど、論文を送ると読んでくれたのはとても励みになった。
食事会の際には相変わらず年長者からケイタイと持つように言われたものだけれど、叔父の実家を継いでいる従弟が「便利になるなら何でもイイとは思えない」というボクの発言に共感してくれたのは嬉しかったナ。
ボクが中学生くらいの頃に「いっちゃん、50円おくれ」とねだった幼い従弟が、こんなにも成熟したことを言ってくれたのはメチャ感銘したネ。
男だけの3人兄弟の末っ子だけど、兄弟では一番成熟しているかも(長男はボクと同い年で今に至るまで無職、次男はボクが一時期家庭教師をした成果かどうか、兄弟では唯一大学[早稲田の理工]を出て会社員)。
性格の良さでは後述の従弟と同じで救われる、ベンキョーができたお蔭で目立っていたせいで非難されやすかったボク(たちインテリ親族)からすると、フツーに付き合ってくれる年下の従弟の存在はとても有り難い。
退職記念の『学大国語国文学』や『青銅』も読んでくれているとのことで、感激だネ。


体調が悪く飲食がサッパリだったけど、もう1人の従弟のお蔭で亡き叔父のすぐ上の姉である叔母に会えたのは大きな収穫だったナ。
在職中にも「一郎は忙しいと見えてチッとも顔を見せない」という不満は聞こえてきたものだけれど、ボクの方でも会いたくても会えないのは淋しかったものだ。
この叔母はむかし沼田(真田ブームで訪問者がむやみに増えたとか)の手前の岩本駅から川を越えた山の麓に住んでいて、小学生の頃は夏休みは長いこと毎年叔母の所で過ごしたものだ。
その頃から腸が弱かったのか、子供たち数人で食べたアイスキャンデーがボクだけ中(あた)って叔母に心配・迷惑をかけたことは忘れない。
定時制に勤めていた頃に仙台に職員旅行に行った時も、十数人で食べた牡蠣のフルコースで中ったのはボクだけだったナ。)
退職してから盆で前橋に帰るたびに叔母に会いに行こうかと思いながら果たせずにいたので、今度思い切って従弟(叔母の次男)に連れて行ってもらえてたすかったナ。
老いが脚にきたために出歩けなくなっていたので会う機会が減っていたのだけれど、叔母の部屋に入るなり「一郎も白髪になったなア」と驚かれてしまったヨ。
本人が心配したほど老化していなかったのは嬉しかったし、前から聞いておきたいことも聴けたのは満足だった。
自分の退職記念「口演」をきっかけに生まれる前の親の世代のことを知りたくなったということは記したけど、隔てなく聞ける相手はこの叔母くらいしかいなくなってしまった。
この叔母の一番上の姉がボクの母なのだけれど、二番目の兄が二郎(次郎かも)さんという人で、親父がしばしば二郎さんの所に遊びに行っていたという話は昔から聞かされていたものだ。
それが母親目当てだろうという推測も付されて笑えるエピソードだったけど、二郎さんが結核のために重労働ができずに洋服の仕立てをしていて、兄弟姉妹は感染を恐れて二郎さんの部屋に入るのは禁じられていたとのこと。
親父はいつも二郎さんの部屋の窓に坐って、縫い仕事をしながら相手をしていた二郎さんと長いこと話し込むのが常だったとか。
それが母に会えるチャンスを待っていたためかどうかは、親父には聞けなかったし「真相」は不明のままに終るほかない。
それより父親(ボクの祖父)を早く(45歳で病死)失った親父が満足に小学校にも行けないまま(親父の自慢の1つは分数を知らないことだった)他家の小僧をしながら弟妹5人を養っていたと聞かされていたけれど、自家の仕事(祖父の代から靴屋)は職人に任せたまま二郎さんの所に遊びに通ったと知らされ、叔母に会ってホントに良かったと思えたものだ。
そもそも親父が小僧に出たこと自体が事実ではなかった可能性も出てきて、親父があまり自分で靴を作らなかったのは(作れないのかと思っていたら、学生時代だったか親父の仲間から作れるけどクセがあるという証言を聞いた)他家でキチンと教えられずに自家でテキトーに習っただけなのかもしれない(叔母はその点は定かではなかった)。
ボクがもの心ついた頃には小池さんという職人がいて靴作りは全部小池さんがやっていたけれど、靴屋を始めた祖父の跡取り息子というポジションだけで楽をしていたのかもしれないと思うと、とても気分が楽になったナ。
なにせ当時の前橋では靴屋は3・4軒ほどだったとのことで、祖父は小間物屋の実家から出て靴屋を始めて戦争景気に乗ったらしい。
店は祖母や職人に任せてか昼間から馬場町の女郎屋に上がり、知り合いが通ると2階から「おい、上がれ!」と声をかけて困らせたというのは、子供の頃に聞かされた(その血がボクに流れていないのはザンネン)。
ともあれ親父はこの祖父のお蔭でけっこう楽もできたのかもしれないと思うと、弟妹の親代りとして働き続けたという点では頭が上がらないものの、親父に対するコンプレックスが少しは和らいだ気がしたネ。


法事の叔父も晩年は結核だったけど、結核はともあれ喘息も煩っていて、その血脈はボクにも(息子にも)流れていたのに気付いたのは退職する2年前だったか。
それ以来毎日吸入器を使っているのだけど、血圧の薬も飲んでるし加齢とともにいろいろ出てくるものなのだネ、白髪になるのも当然だナ。
じゃ、オヤスミなさい!