選挙より占拠だった  AKBより黒鉄ヒロシ  「コントレール」  大石静  草食系男子スタッフ

先日AKBの選挙があったのは、身近の若手研究者が落ち着いて付き合ってくれずに、テレビを見にたびたび席を外す理由を聞いて判った。
当初からあんなものに夢中になるのは小中学生かと思っていたら、イイ大人まで本気になっているのは驚きとともに知らされた。
プロデューサーの秋元康のブーム作りの才には唖然とするばかりだけれど、秋元にいとも簡単に操られる大人たちのノーテンキぶりは全く理解不能だ。
ボクにとってのAKBはオバカが売りのロックンローラー風に解けば、黒鉄ヒロシの「赤兵衛」(AKABE)なんだけど、まさかあんな歌も踊りもシロウトばかりのバカ娘たちが流行するとは未だに(!)信じられない。
思わずその優秀な若手に向かって、「オレたちの世代は占拠に夢中だったけど、君たちは選挙に夢中なンだナ」と言ってしまった。
「占拠」と言っても今どきの若者にはピンとこないだろうけど、学生運動が華やかな頃に学生が取った非常手段の1つで、大学に日常性をストップさせることで学生の主張を認めさせたものだ。
ストライキも手段の1つだけど、それがエスカレートして授業が強行されないように建物全体(時には大学全体)を占拠したわけだ。
当時の学生は「選挙」そのものには不信感を抱いていて、選挙じゃ状況は変えられないと思い込んでいたので選挙には行かなかったものだ。
もちろん共産党支持の学生たちは占拠を否定しながら選挙に行っていたけれど、大学や高校を変革しえたのは選挙ではなくて占拠だったのは歴史が証明している(興味があれば調べてもらいたい)。
笑えたのは1968年、東大10学部の中の9学部が全共闘によって無期限ストライキに突入したら、残りの共産党支持のミンセイ(民主青年団)が自治会を牛耳っていた教育学部まで、それまで反対していた無期限ストライキに入らざるを得なかった時。
戦前から昭和20年代までの革命運動が大衆の支持を得られなかったため、反転して安全運転に切り換えて全てを選挙運動に集約させてきた共産党は、占拠を始めとする学生たちの実力行使に反対し阻止しようとしてきたのは、2度の反安保闘争における学生運動でも明らか。
(深夜のような第三者が見ていない時の共産党系の学生が反日共系学生に対する暴力ぶりは、素晴らしい性能の火炎瓶に感心した記憶とともに忘れがたいが、昔を語り始めると話が止まらない、元に戻そう。)
ボク等の世代が占拠のように身体をさらして〈直接〉主張し表現したのに対して、若い世代は選挙のようにメタレベルの立ち位置から〈間接〉的に関わるという違いがあると分析してみたけど、如何なものでしょ?

そんなことを考えていたら、たまたま遅れて読んだ朝日新聞(夕刊)の18日の記事に劇作家(脚本家)の大石静さんが似たような(?)感慨を語っていた。
「コントレール〜罪と恋と〜」というドラマの脚本を大石さんが書いていたのは知っていて、大石さんが永井愛さんと二兎社として演劇活動をしていたので親近感はあるのだけれど、テレビドラマは見ないので(主義じゃなくて習慣かな)スルーしていた。
2010年の「セカンドバージン」で中年女性の激しい不倫を描いて評判だったので、「コントレール」もその延長で禁断の恋に奔(はし)る女性を造形しようとしたら、複数の草食系の男性スタッフから「こんなに攻めてくる女は嫌だ」(笑)等と繰り返されたので、「時代に負けた感じ」になって何回か書き直さざるをえなかったとのこと。
大石さんはボクとほとんど同年齢だから、「私がエロばばあなのかもしれない」と自虐する彼女の肉食系は占拠系であり、草食系の男子スタッフは選挙系ということになるだろう。
最終回では激しいベッドシーンの後で、ヒロインが「この思い出だけで生きていかれるぐらい、私の体にあなたを刻んで」と独白するそうだけど、この台詞も一度はスタッフに削られたものを大石さんがガンバッテ復活させてとのこと。
ガンバレ、大石!