田村俊子「秋海棠」  清岡卓行の作品

中国の田村俊子研究といえば李蓮姫さんがいて、以前学芸大にも研究留学に来ていた時に俊子作品を一緒に読む機会を得たけど、今回の発表であるマー(馬)さんも李さんの存在は知っているとのこと。
田村俊子研究は日本より中国の方が盛んなのかな?
マーさんの発表は期待以上のもので、《加美江は気が付かないことを分析しながら、彼女の裏に隠れた「自我意識」を論じ》たいというモチーフはとても面白い着眼だ。
ここに《語り(手)》というタームを持ち込むとスッキリするので覚えてもらいたいが、ヒロインに内的焦点化した語りに徹するのではなく、時折ヒロインを外側から相対化する語りが入る点に着目したセンスは期待できる。
著名な例で言えば「三四郎」が典型的だろうし、田舎出の青年には見えない・分からない現実がくり返し語られている。
「秋海棠」は「三四郎」ほど頻繁ではないけれど、ヒロインには見えない自身の姿を語りが明示しているテクストだ。
マーさんは研究熱心で授業後も質問に来たので30分くらい対応したけれど、ヒロインが「自己欺瞞」を犯しているというボクの理解を示したら納得した表情だった。
マーさんの熱心さはラカンの概説書、ジェシカ・ベンジャミンの書、クンデラの小説論という3つの著書を援用しているところにも現れていたけれど、それらがあまり有効に使われてない(無くても論の展開ができる引用が多い)ので今後は慎重さを意識してもらいたい。
例えば新宮一成ラカン精神分析』から「鏡像」という概念を引き出しているけれど、ラカンと言えば成長の1過程としての「鏡像段階」が重要であろうが、ラカンの理論と切り離す形で「鏡像」という概念だけを利用するのは違和感が残る(ラカンを持ち出す意味がない)。
とはいえ多くの意見と議論を呼び起こした発表の手柄は大きい。
もう1人の発表は佐藤春夫研究を志すセンさんに急遽引き受けてもらったが、これもなかなか挑発的なもので議論を盛り上げてくれた。
舞台女優を目指すヒロインは当時注目された『青鞜』に集まった「新しい女」を思わせるものの、実は伝統的な考え方の女性なのだという読みはヒロインの一面を捉えている。
ただ演戯記者である推野(「しいの」と読ませている)が谷崎潤一郎のような「女性崇拝主義」者だという把握はいかがなものか?
田村俊子という作家には固着したイメージが薄いせいか、2人の読みに作家が呼び寄せらることがなく、テクストだけで読まれていたのも良かった。

表題もテクストの一部なので必ず読みにくり込んでもらいたいが、「秋海棠」という題名をどう理解するかは全体で種々の案が出されて楽しかった。
花言葉からの解釈も面白かったけれど(普遍性に欠けるイメージなので説得力が不十分ではあるが)、花の形状から「片思い」というのは笑えたものの、誰の何に対する「片思い」かという点でも意見が分かれて盛り上がった。


@ 次週は清岡卓行「鯨もいる秋の空」、留学生にしては(というより日本人としても)珍しい研究対象。