安部公房「公然の秘密」  川端康成「禽獣」

遅ればせながら9日の授業の記録。
第1回の授業でグッチ君が大幅に遅刻した時に、レジュメ作りで完璧を目指すのはイイけれど、完璧はありえないので自分にフン切りを付けて早目に切り上げ、授業に遅れないようにと伝えたばかりなのに、タイメイ君がグッチ君の二の舞を演じてしまった。
記して受講生の今後の戒めとしたい。


幸い留学生の張クンが大江健三郎に関心があるというので、公房も読んでおくとイイと勧めてレポの1人になってもらっていたので、タイメイ君の到着までつないでもらえた。
前回のテイミンさんの発表も意外に独自な読みができていたけれど、張クンも仔象の外見から広島・長崎の被爆者のイメージを重ねて読んでいたのは驚いた。
今どきの若い日本人には共有されていない(そのせいで戦争や核問題に無頓着)広島・長崎の悲痛な体験を、留学生がすぐにイメージを呼び起こすことができるのは驚くしかない。
と思っていたら、張クンが大江健三郎を通して被爆者のイメージを得ていたと知り、ナルホドである。
ヒロシマ・ノート』(岩波新書)その他で大江が被爆を自己のものとして生き、表現していたのは知られている通り。
張クンの問題意識の在り方に期待したい。

タイメイ君のレジュメは9ページにわたる大部のもの、フン切りが付かなかった意欲の現れでもある。
先行研究など実によく調べてあるものの、それらに敬意を表し過ぎてか自分自身の読みがイマイチ不鮮明。
テクストを「現実=外部」の事実に置き換えることが《読む》ことだと勘違いしている黒古一夫の論はダメだと無視した判断は正しいけれど、その勢いで他の先行論に対しても是非をハッキリ言い切ることが大事。
このテクストをエッセイだという論に中途半端に異議を呈するのではなく、小説(虚構)だと断言する自信が持てるまで読み込んでもらいたい。
テクストの「泥」に着目して「泥」と「水」の近似から自論を作ろうとした意気込みにはセンスを感じたけれど、他のテクスト「シャボン玉の皮」にスライドして「有用性」や「暴力性」に集約してしまうのは疑問が残る。
「泥」が「水」と「土」から成っていると押さえておけば、末尾でなぜ仔象が燃え尽きてしまうのかというセンさんの基本的な質問にも、「火」・「水」・「土」という要素による読み方の可能性も開けるというもの。
自分の読みをシッカリ構築しえてないと、教室における読みを意識して「イジメの構造」などと言ってしまう、田中実のようなツマラナイ論に引きずられることになる。
最初の発表なので足元がふらついただけだと思えば、今後のタイメイ君に期待できる内容だった。


次回は留学生のハンさんの希望により、川端康成「禽獣」。
川端自身は嫌悪しているが、紛れも無い傑作。