清岡卓行「サハロフ幻想」  泉鏡花「縷紅新草」  テクストの《読み》

参加者がいつもより少なめ、ケガのセンさんはともあれ、研究に臨む姿勢が消極的(セコイ)なせいでなければイイのだが。
清岡の小説(それもチョッと長め)からは得るものが少ないと決め込んで忌避したとすれば、とんだ思い違い。
課された作品が何であれ、積極的にチャレンジする姿勢がなければ、返ってくるもの(得るもの)も(少)ないと銘記すべし。
 (と、ここまでは昨夜記したのだけれど、鏡花作品の理解が自分ながら十分とは思えなかったので、そちらに時間を割くためにブログ更新は先送りにした。)


今日は鏡花の難解な作品、留学生には負担が大きすぎるかと思いきや、出席者は日本人よりも遥かに多いので研究に臨む姿勢に開きが出た思い。
元来、個人的には鏡花テクストは自閉的(良く言えば自己完結的あるいは自足的)に過ぎるので敬遠していて、主催するヒグラシゼミでも鏡花は原則的に受け付けないのに、イー君のように2度も鏡花を強行した仲間もいたのは遺憾である(とはいえとても勉強になったものだ)。
「縷紅新草」は最晩年の作品だそうで、そのせいか(ボケたか)一段と理解しにくいテクストで作者の我がまま(甘え)ぶりが全開していて、意味が十分に伝わってこない。
仕方ないので再読したものの、それでも理解できたという確固とした自信を持てないままでいる。
発表を聴いていたら、若き日の辻町と初路が心中(未遂)したという前提で論が構築されているのでビックリ。
他の日本人学生も同様の読み方としていたのでさらに驚いた。
ボクの側の誤読かと思い、心中(未遂)したという根拠をテクストから引き出してもらっても、ボクのツッコミで崩れてしまうというくり返し。
けっこう時間をかけてやり取りした末に、2人は生前から知り合いの仲でもないということになった。
鏡花のテクスト自体が死(自殺)のイメージを人物たちに重ねて語っていることに原因があるのは確かながら、その手に乗せられて2人が心中を図ったとするのは《読み》が甘すぎるだろう。
テクストを読む際に先入観・思い込みを除かないと、とんでもない誤読に陥ることになるので、十分な自制を怠ってはなるまい。
そもそもシラバスに記したとおり授業のメイン目標が《正確な読み》であるので、殊の外テクストの《読み》には細心の注意を持って臨んでもらいたいものだ。
出席しなかった受講者の読み方を聞いてみたい気がしたけれど、意見をメールしてもらいたいナ、本気で。

というわけで、それぞれの作品に関する議論は改めて。