【ゼミ部】感想  現代文学の新傾向? 

 開始時間の情報が混乱したようで申し訳なかったですが、レジュメが配布されているので1時15分過ぎには始めました。

 レジュメの分量が多かったものの、ナオさんが適宜読まずに(テクストからの引用は読まないというのは慣例ながら)時間を節約してくれたので、適度な発表時間だった。語句レベルではメイさんの指摘のとおり「凉子」がサンズイの「涼子」となっていたので、参加しなかった人は手許のレジュメを訂正してもらいたい。重要な同時代評を残している中条省平氏の読み方は「なかじょう」ではなく「ちゅうじょう」なので注意しておきたいが、「100分 de 名著」が「ペスト」を取り上げた時の解説者と言えば顔が浮かぶ人もいるだろう。

 

 発表の核としては、テクストが広い意味のパロディであり、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」を含む複数のテクストが響き合っているという興味深いものである一方、中条も指摘する「時間」や「震災」というテーマ(?)の展開が説得力を欠くというもの。

 オンライン参加のメイさん(元助手の神村さん)が積極的に発言をくり返してくれたので、参加者はありがたかっただろうけど、レポのナオさんが当初は孤立無援状態になっていたのでカワイソーだったナ、その後は発言が出てきたけどネ。メイさんの発言で重要と思われたのは、「T」の存在が意外に大きいということで共感できた。他の人物は名前が付いているのに、Tだけがイニシャルなのも気になるところ。

 しかしメイさんは、Tは依田夫人に取り込まれていると読むところには賛同できなかった。メイさんはTを、大野と依田夫妻を橋渡しする存在として位置付けているという読み方をしている。個人的にはTに注目するなら、いっそのことTが他の人物をコントロールしているという読みを期待したのだけれど。Tの名が伏せられているということは、Tは言わば歌舞伎の黒子のような存在であって、陰で他の人物を動かしているのだあって、人物間の橋渡しもその一環だとしたらどうだろう? メイさんはそうは読まないというので、我ながら珍しく今日になってもテクストを読んでいた(未了)。

 

 何でも読んでる・知ってるヒッキ―先生の補足や意見が気になるところだったけど、作者の平野啓一郎は意外にも評判になったいとうせいこうの「想像ラジオ」を批判した上でこの昨品を発表したとのこと。平野作品にも「声」が出て来るけれど、平野はそれほど「声」を重視できないと考えているようではあるものの、意外すぎてヒッキ―先生の説明が消化できなかった。

 さらに面白かったのは、平野の作品は保坂和志「反響」や円城塔「道化師の蝶」と同じく、一時期流行ったドーキンスの「生物は遺伝子を運ぶ媒体でしかない」という理論を応用したような創作を目指しているとのこと。テクスト内の特定の人物に意図を認めない(つまりは《主体》を認めないというポスト・モダンの立場か? いずれにしろドーキンス理論に近似している)という発想で生まれたテクストだから、大野・依田夫人・Tの意図が読めないのは当然ということになる。これも初耳で吾ながら現代文学の傾向について無知を知らされてビックリだけど、だとするとテクストから物語内容は読まずに方法だけを読むことにならないか? 小説を読む楽しさが貧相になってしまう危惧が生じてしまうけれど・・・初耳だけにボクの理解が不十分のせいだろうけど。

 それにしてもハルキは読みやすく、かつ議論しやすいネ。

 ナオさん、発表お疲れさまでした!

 

 昔から自主ゼミは作品を発表者が選ぶので新しい体験ができてありがたいのだけれど、今回はつくづく現代文学に馴染んでないことを痛感させられたネ。とはいえハンセイして現代小説を読もうという気になるほどの余裕はない、世界文学の古典を読まずに死にたくないからだ。でも若い人は古典も現代文学も偏りなく読まなくてはいけないネ。学生時代に評判だった日本文学研究者・オリガスさんは、学生に向かって「研究対象の近代文学だけでなく、目の前に展開されている現代文学を読まなければいけない」と言っていたそうだけど、そのとおりだよネ。