【読む】滝口明祥さんの『シドクⅡ』書評(続き)  滝口明祥『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代』

 《 「批評」を意識したつもりは皆無ながら、無意識のうちに想定する読者が専門家  

    の枠から外へ広がっている、と自覚させられた思いであった。《研究者の自己

    閉塞》に対する批判が、自身に刺さっていたということであろう。「批評・エ  

    ッセイ」が読んで面白いものを意味するとすれば、一般の読者が読んでも楽し

    める研究論文こそが私の目指すところである。

  (略)いわゆる「テクスト論」が盛んだった時代には「恣読」への危惧が大きかっ

  たのに対して、本書に収録されている2000年代以降の論考においては、「研究

  者の自己閉塞」に対する不満が増しているのであり、文学研究において「私」性が

  必要不可欠なものであるとする著者のスタンスがはっきりと感じ取れるようになっ

      ているとも言える。》

 「研究者の自己閉塞」批判と文学研究における「私」性の比重の微増が関連しているとは、指摘されてビックリだネ、ナルホドそういう捉え方もありうるのか! 教えられるネ。さらにキツク教えられたのは、(気づきながらも?)誰も明言してくれなかったことだ。

 《つまり、本書が目的としているような「テクストの《細部を読む》楽しさを共有」できる読者というのは、いったい現在、どれほどいるのだろうか、という疑問である。(略)そうした読者は今はるかに少なくなっているであろうし、今後ますますその数が少なくなっていくこともまた容易に予測できることであろう。》  

 残念ながら己れのノーテンキぶりを認めざるをえないようだ。刊行当時、本書の意図が数多とは言えないながら(研究者でない人からも)届いたという実感に感銘を受けながら、広がりは期待できないことを認めざるをえない。前書きに記したような、伊集院光又吉直樹などに届くはずだという思い込みは、あまりに楽観的過ぎたというわけだ。1つの文学テクストを《細部》にこだわりながら読み込むという作業は、誰に対しても開かれているわけではないということを痛感させられたネ。そんなこと最初から明らかだろうと言われても、返す言葉もない。

 無茶振りした覚えはないけれど、吾が無知ぶりを敢えて教えてくれた滝口さんに感謝! 参りました!

 

 ブログ記事の最初に、滝口さんがこんなに切れ味が良いとは意外だったと記してしまったけれど、滝口さんの書『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代』(新曜社)を想起すればスゴイ人だったのだ。実をいえば「黒い雨」の章しか拝読していないので(全13章)印象が薄かったのだネ。井伏文学自体が分かりやすいので、その論と切れ味とが連想しにくいこともあるだろネ。そもそもボク自身死ぬまでには滝口さん等の論に導かれつつ、井伏鱒二全集を通読するのを楽しみにしているものの、その分かりやすさ故に順番が最後に近いのだネ。沖縄文学全集や戦後戯曲全集などを別にして、個人全集では安吾を始めとして高見順・朔太郎・荷風などの全集が先になるだろうからネ。

 しかしここまで拙著を読み込まれては、ボクも滝口本を読みこんだ上で感想をアップしたいネ。井伏の小説を読むのは楽し過ぎて、罪悪感さえ感じてしまうのだけどサ(だから老後にとっておきたかったのだけどネ)。利点は論じられている作品の多くを既に読んでいること。未読の作品についての論は、原則として読みたくないからネ。