【読む】「ねじまき鳥クロニクル」論(2)  宇佐美毅  「ドライブ・マイ・カー」  「ワーニャ伯父さん」  

 たまたまコピーしてあった宇佐美毅さん(中大教授)の「ねじまき鳥~」論(『国語と国文学』2015・1)も、この際せっかくだから拝読したヨ。宇佐美さんは大学院の後輩の中でも傑出した人で、学大の学部時代は山田有策先生の指導の下で明治前期文学研究を志し、院修了後の成果として『小説表現としての近代』(おうふう、2004年)というスゴイ著書がある。明治前期文学オンチのボクとしては、無知を乗り越えて本書に挑戦しようとするもののいつも跳ね返されてしまう。その点ハルキ論も数多く書いているので(さらにテレビドラマ論まで本にしているけど、ボクはテレビドラマは大河以外は見ないのでもらったものの読めないでいる)、こちらは近づきやすいのだナ。

 「村上春樹作品における〈ことば〉と〈他者〉--『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』--」

という表題の論文ネ。それにしても東大国語国文学の研究室が編集している雑誌に、ハルキの論が載る(それも巻頭論文)時代になったのだネ。

 宇佐美さんの論述法はいつも手堅いので安心して読めるものの、ハデな大川論文の後に読むと広がりがないように感じてもの足りなく思うかもしれない。しかしハルキ相手にいかにも〈研究〉の体をなした論文は、宇佐美さんのものでやっと出会えたという印象だネ。個人的には「ことば」にしても「他者」にしても興味深いテーマなので、面白く読めたヨ。

 《従来的な物語内容に関する「デタッチメントからコミットメントへ」の構図とは異なる、物語言説面からの変化を明かにしたい。》

というのは挑発的で読みたくなるだろうネ。

 《心の中に繰り返してきたことばを、誰かに向かってようやく語ろうとする瞬間をとらえているところに、村上春樹作品の特徴がある。》

言われてみれば、なるほどそういう場面が思いつくのがあるネ。

 《『ノルウェイの森』を含めた村上春樹作品に描かれる人びとは、男性か女性かを問わずに、ある種の「ホモソーシャル」な関係を作っていると言うべきである。(略)同じ感覚を持つ者としかかかわろうとしないことによって、セジウィックとは別の意味でのきわめて同質性の強い「ホモソーシャル」世界を作り上げているのである。》

 ハルキ文学の「同質性」に重なると思うけど、ボクも『シドクⅡ』の太宰治(と志賀直哉)論で〈同一性〉という言葉で論じたことがある。

主人公・岡田亨が綿谷ノボルに対峙する場面(第2部3)の引用しをして、宇佐美さんは

 《それまでの村上春樹作品の中で、主人公がこれほど必死にことばをさがし、相手の表情を読み取ろうし、必死に他者に対抗しようとした場面があっただろうか。》

と言うのもナルホドで、「ねじまき鳥~」は貴重な作品なのだと教えられたネ。読み直そうとは思わないけど。第3部が追加刊行されたというのも本論で教えられたけど、ハルキ自身が自作解説で

 《第3部のテーマは、簡単に言ってしまえば「闘争」と「救済」にならざるを得なかった。》と明言してるのも知らなかったヨ。ハルキ文学の転機を1995年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件におく捉え方が一般的ながら、「ねじまき鳥~」の刊行はこの2つの事件をまたいでいるものの、第3部までは事件の前に既に書かれていると宇佐美さんは指摘している。

 《「個」か「社会」かという対比よりも、「個」と「個」がどのようにかかわるかという村上春樹独自の課題を追究した結果として従来のことばのあり方やコミュニケーションのあり方が変化したという方がより適切な説明となる。》

 個人的にはとっても共感できる結論だネ。ハルキ文学ってボクが思っている以上に深いし、単純じゃないようだネ。

 

 「ドライブ・マイ・カー」も未読だったけど、収録されている『女のいない男たち』が自家の本棚にあったので読んだヨ。例によって設定に無理があるけど、いつものように読みやすい優れた文章が楽しめたヨ。作中に出てくるチェホフ「ワーニャ伯父さん」も気になって取り出してきたら、劇場中継の録画を2とおりで観たものの作品自体は読んでないという記憶に反して、本に読んだ形跡があるのだネ。舞台の方はカクスコの主催者だった中村育二が主演したものと、脇役では名演している笹野高史がワーニャを演じているものの、両方ともミスキャストで全然ダメだったという印象だけ残っている。でも全集を読み返したら、いかにもチェホフで素晴らしかったネ!