【読む】志賀直哉「小僧の神様」を教材にしたら?

 中高の教員である仲間から、《「城の崎にて」が教科書に載っているのだけれど、飽きたてしまい気が向かないので、他の志賀直哉の作品でもっと面白い授業ができそうなのはないか?》という相談を受けた。以前『解釈と鑑賞』(2003・8)から頼まれて書いた「小僧の神様」論(『シドク』1・2には未収録)を、学大の授業でやったらとてもウケたのを思い出し、授業時のポイントをまとめて送ったヨ。釣り部で疲れていても、「ボーッと生きているンじゃないヨ」。

 もっと教科書に採用されてイイ作品だと思うから、共感できたら使ってみてヨ。

 

   「小僧の神様」 《読み》のポイント

 

Ⅰ) コントラスト(対照)の妙

 ① 主たる対照となる小僧と貴族院議員Aとの対照以前に、冒頭から小僧と番頭との対照が提示されている。

 「通」じみた言葉(観念・想像)のやり取りをしている番頭に対して、「唾」という肉体的な反応を示している小僧。

 →「通」が《間接性》だとすれば(九鬼周造『「いき」の構造』)、肉体の反応は《直接性》という対照

  「通」や「粋」は《直接性》を「生野暮(きやぼ)」(露わな欲望)として嫌う

 

 ② 寿司屋で「思い切った調子」で「勢いよく手を延ば」すことになる小僧の「手」が、冒頭では「前掛けの下に両手を入れて、行儀よく坐って」いることを押さえておく。

 

 ③ 寿司屋で「思い切って」(その前に躊躇したことが分かる)暖簾をくぐりながらも立ちすくんでしまうAに対して、小僧は「Aを押し退けるように」割り込んでいる。

 

 ④ 四・五でAの「冷汗」がくり返されるが、小僧の「唾」との好対照として読める。

  「唾」=肉体的→小僧の願望は物(外部)に向かう

  「冷汗」=心理的(精神的)→Aの意識は自己(内部)に向かう

       寿司屋からすれば「粋」な行為に見えても、Aは反省意識に囚われるので「粋」どころではない。

    平気で「御馳走してやればいいのに。」と言える(実行できる)Bは典型的な「野暮」で、モデルになったであろう武者小路実篤そのもの(モデル問題は授業では排除する)。ついでに明かしておくと「七」のYはもちろん柳宗悦だけど、「Y夫人」とは柳兼子というソプラノ歌手で80歳過ぎてもレコードを出した(のを持ってるヨ)。

 

Ⅱ) 対照ではなく対称の問題

 小僧とAとの対照を身分的な非対称と捉えがちだろうが、根本的な非対称としては《視線の非対称》であることが肝心。例えばAが不道徳なことをしでかした所を小僧が見たとすれば、小僧が優位に立つ(ゆすることも可能)わけだから、身分とは無関係。一方的に《見る》だけで自分は見られないという在り方が《視線の非対称》であり、覗き部屋のような風俗を想起すれば分かりやすい。

 《仙吉はAを知らなかった。然しAの方は仙吉を認めた。》(五)

 Aは小僧の視線を免れているからこそ(寿司屋では認知されていない)、《視線の非対称》によって「神様」とまで思われてしまうわけだ。

 

Ⅲ) 交替法

 野口武彦『近代小説の言語空間』(『海燕』に連載したもの)の論のとおり章ごとに小僧とAが単独に語られているのは、両者の存在がそもそも接点を持たないことの現れと言えるだろう。生徒にこの点に気付かさせるように誘導させると良かろう。

 

Ⅳ)「淋しい感じ」(これは難しい?)

 心理学的に読めば、己の体験が未消化のままで自己の中に取り込めていない不安定な段階と言えるだろう。不安定だからこそ、Aは落ち着くことができないでいる。

 拙稿では常に「自己完結」している志賀的存在が抱え込まざるとえない「共生感の欠如」として読んでいる。

 

Ⅴ) メタフィクション

 末尾の「十」で「作者」が登場しているのはメタフィクションの在り方なので、メタフィクションという言葉と共に教えても良いだろう。