【読む】山本勇人の小林秀雄論(3)  権田和士  森本淳生

 山本勇人さんの小林秀雄論に強い刺激を受けたので、自家のあちこちに仕舞ったままの文献や資料を探し集めて整理しているところ。山根龍一さんや大原祐治さん等の著書による誘導もあって、けっこうホンキで少しずつながらも読みこんでいるヨ。ボク等が小林研究を進めてからは、ほとんど小林秀雄を専門にしている人は(大学院後輩の)権田和士さんくらいなのに、権田さんの著著『言葉と他者 小林秀雄試論』(青蕑社)を頂戴しながらも定年後の楽しみに放置したままだったのもやっと取り出してきた。研究対象としての小林に対する関心が薄らいでいたのが主因だけど、その怠慢さに山本論が揺さぶりをかけてくれたという感じだネ。(丁寧に断っておくと、森本淳生『小林秀雄  美と戦争』(人文書院)というハイレベルな達成があるけど、ヴァレリー中心にフランス文学専攻の人のものなので研究というより批評として分類しておきたい。)

 山本さんが挑発している大事なポイントは、戦時下の小林の活動は骨董品に凝って売り買いしながら、古典論を執筆する以外に目立った活動はしていない、という従来の小林像に訂正を迫っているところだ。ボクが小林論を書いていた頃の一番不可解だったのも、その時期の小林の活動に関する資料が皆無だったからだ。殊に山本論が強調しているように、1943・12~44・6の期間は小林が独りで中国に渡って大東亜文学者大会実現のために活動したという内実は、小林自身も書き残していないだけでなく他からの証言も(山本さんが注記・依拠している)江藤淳の『小林秀雄』くらいしか無い。(この江藤淳の本が行方不明のままだったので、先日見つけるまで山本論に対する言及ができなかったのも情けないボケ老人ぶりだネ。)

 《ところで、大東亜文学者大会の第3回を南京で開くことは、久米正雄の夢であった。(略)おそらく林(房雄)氏と小林は、窮地に立たされた久米正雄の意向を汲んで、さらに準備を進めるために旅したのではないであろうか。(略)そして、十二月に小林が上海に渡った頃には、久米正雄の見通しは決定的に暗くなっていた。情報局当局者をはじめとしてそれまで久米を支持して来た人々が、この計画に難色を示しはじめていたからである。

 小林自身は、この唐突な行動を、情報局とそれに同調する友人達への単純な反感からだといっている。》(『小林秀雄』第二部九章)

 ほとんど知られていない内情が語られているのは、注Ⅴに「以下大陸旅行に関する話は小林氏の直話」だからであり、小林からの「直話」である限り江藤淳の特権から排除されている我々はそのまま信じるしかない。とすれば小林が大東亜文学者大会の実現自体に情熱を燃やしていた、というような積極性を強調することはできないだろう。

 

@ 以上までを数週間前に書いたまま放置してあった。安倍晋三銃殺事件についてブログを更新するのに忙しかったというのが主因ながら、生来のモノグサで続きを書くのが億劫になったというのが実情だ。しかしいつまでもアップしないのも(薄くなった)後ろ髪を引き抜かれる思いもするので、とりあえず載せておくことにした。

 要は山本さんの新説には意欲を感じるものの、残念ながら説得力を感じないということ。そもそも第2回大東亜文学者大会(昭和18年8月25日)における小林の講演記録「文学者の提携について」(『文藝』昭和18年10月)を読めば、この時期の小林には山本氏が強調するような他者に働きかける積極性などカケラも無いことは自明だということ。拙著『小林秀雄への私的試み 〈関係〉の飢えをめぐって』(洋々社)で説いたように、小林の「第二の青春」は太平洋戦争勃発以前に終了していたというのは動かせないだろう。