【読む】山根龍一さんの安吾論(?) 「マルクス主義は宗教か」

 山根さんの『架橋する言葉 坂口安吾時代精神』(翰林書房)について書くのは何度目だろう。「(?)」というのはそれを表記したものだけど、表題にある安吾のみならず小林秀雄も論究されているのでボクとしては目が離せない著書だから、時おり取り出しては読み返している。読んでいると安吾のみならず小林についてもボクが未読の文献が出てくるから、それ等を読む機会を与えてくれるのでタイヘンながらもとても勉強になる。それだけ山根さんの勉強量がハンパなく多いということで、読むたびに感心するばかり。とにかく何でもよく調べて読んでいるので、安吾研究者の中でも啓発してくれ続けている大原祐治さんや、先日「土の中からの話」論などを送ってくれた藤岡耕作さんなどと比べても、山根さんの論の情報量は際立っているという印象だ。

 でも別の見方をすれば、山根さんが若いのでそれだけ勉強しなければならない量が増えるからだとも言えるかもしれない。本書の第二章など特にその感じが強いので、一読した時はボク(等の世代)にとっては不要な章としか思えなかった。小見出しに「マルクス主義は宗教か」という問題に正面切って挑んでいるけれど、ボク(等)にはマルクス主義者の言動が宗教者のものと大差ないことは自明だったからだ。小林多喜二の昔から学生運に打ち込んだ果てに挫折し自死に至る活動家まで、ロマン的革命主義者の行動パターンと教理信仰の愚直さはいつの世も変らずに(革命的な)宗教家のものに近い。

 山根さん(の世代)にとっては、マルクス主義と宗教が根本的に背馳するものだというのが常識であるため、その常識を打破するために「マルクス主義は宗教」だという言説を洗い出さなくてはならなかったのだろう。そのために調査して読んだ文献の量には圧倒される思いがする一方で、並んだ多数の注を見ながら何やら虚しさも感ぜずにはいられなかったというのが正直なところだ。もちろん初めて知る文献からの引用を読みながら、啓蒙される喜びとともに怠惰な身にはいちいちメンドクサイという思いが共存するからだ。

 しかしこの章は山根さん(等)の世代以降の読者のために付したのだ、という弁解も成り立つもののジジイの世代にとっては本書を読むためには障害物にもなりかねない、という事情も察して欲しいというもの。そもそもこの第二章は次章以後の「風博士」や「黒谷村」を論じるための「準備」であり、章題の《「風博士」を歴史化するために》「マルクス主義と宗教」との関係を「素描」するのだと断っているけれど、そもそも手ぶらでテクストに向かうのが好きな身にとっては、作品を「歴史化」されるのはご免だネ。研究を始めた頃から一貫して文学テクストを歴史や文化など他のモノに置き換えることに違和感を抱き続けているものの、山根さんの論考が世にあふれているそれ等の論と同列とは思えないので拝読しているので、マジメに読んでマジメに反論したい。

 

@ 第三章については後でネ。