【ヒグラシゼミ】報告  西村友樹雄「フランス象徴主義における〈象徴〉と〈音楽〉」  ドビッシーの曲

 基本的姿勢としては〈定義〉から始めるという西村クンでも、さすがに象徴主義の定義は無理っぽいのは周知のことだろう。《ゆえに、本発表でも象徴主義の包括的な定義を試みることはしない》で象徴主義という語および美学に関する「2つの問い」のみを取り扱うということだった。その2つとは、

 ① 象徴主義はなぜ「象徴」主義なのか?

 ② 象徴主義はなぜ音楽を強い結びつきを持つのか?

 言われてみれば2点とも「古くて新しい問題」と言えるだろうネ。発表(講演)はアレゴリー(寓喩)との対比をしながら象徴が意味するところを説明してくれたので、今までになく分かりやすかった。さらには文学史上の「高踏派」との対照も、作品を例示しながら解説してくれたのもありがたかったネ。有名なボードレールの「万物照応(コレスポンダンス)」やランボーの「見者(ヴュワヤン」にも触れてくれたので、基本的な理解にはとても好都合な講演だった(とてもタメになったという感想が多かった)。

 「万物照応」という名のソネットも例示してくれたのだけど、訳をテキストにした福永武彦のものを使いながら「敢えてマチネ・ポエティックの頃の訳を選んだ」と付してくれたので、期せずしてほとんど文学史では埋もれているマチネ・ポエティックの学習にもなった。フランス文学者たちがフランス語の詩に合わせて日本語訳を試みて失敗に終わった運動なのだけど、失敗の原因を日本語(やハングルやハンガリー語)には強弱が無いのに、それを無理して強弱のハッキリした欧米語に合わせようとした点にある、とヒッキー先生が補足してくれてので分かりやすかったと思う。

 

 ソネット「詩法」の冒頭で有名な「なによりもまず音楽を!」と宣言したヴェルレーヌの作品を紹介しながら、西村クンはこれも有名なドビッシー「牧神の午後への前奏曲」やピアノ曲前奏曲集」から「沈める滝」などを聴かせてくれたので、「象徴」と「音楽」との類縁性が分かったような気になれたネ。《音楽は、象徴と同様、シニフィエとの間に、多義的で開かれた関係を結ぶシニフィアンとして機能すると言えよう》という西村クン独特の説明の仕方こそ、今回の発表のミソだったと思う。

 

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