あまり結婚・出産などの慶事は記さないことにしているのだけど、行きがかり上シズカちゃんの第二子出産は心配している人もいるだろうから、皆さんにお報せします。2度目とはいえシズカちゃんのアッケない出産ぶりはスゴイ! 昨夜記したとおりに産んでしまうのだから、40歳のオッカサンの根性には頭が下がる。写真を見るかぎり(さすがにこれはアップできない)母子ともに無事で元気そうだから、ご安心下さい。
【読む】『シドクⅡ』に収録できなかった論文のコピー送ります 「ユタと不思議な仲間たち」(三浦哲郎)論 シズカちゃんのパワー
先日シズカちゃんの情報を伝えたけれど、未収録だった「ユタと不思議な仲間たち」論を読みたいと書いていたので、幸い原稿が残っていたのでメール添付で送ったらすぐに感想を記してくれた(未収録論文の一部は後書きに記してあります)。出産直前だというのに、すごいパワーなのでビックリだけど、皆で母子の安全を祈りましょう!
ボクはファンタジーを読まないけれど、論の趣旨がファンタジー一般と隔たってなかったので安心したヨ。
ともあれ、ガンバレ、シズカちゃん!
【見る】「英雄たちの選択」の危機? 古市憲寿の《絶対値》の小ささ パリピの意味
古市が使っていた「パリピー」が、タイムリーにも朝日新聞の記事に載っていたので苦笑が洩れたネ。「リレーおぴにおん」という欄で「私の三国志」の特集をしていて、四葉夕ト(ゆうと)という作家が「孔明×パリピ クラブで着想」という見出しで書いていて、記者がパリピの語註として「パーティー好きの若者」と記してくれていたので、先日の「英雄たちの選択」で古市が使っていたパリピの意味したところが、ボクの推察と隔たってないことが分かった。それにしても、古市が佐々木道誉をパリピだと言ったのは通じるだろうけど、諸葛孔明をパリピというのは無理だろうと思うヨ。四葉という人は漫画「パリピ孔明」の原作者としてそういう思いついたそうだけど、漫画ならどうでもイイか。
前回書き忘れたけど、番組MCの磯田道史さんは毎回深いことを言うので感心するのだけど、いつだったか上手い表現をしたのが記憶に残っていたのでそれを使うつもりだった。前回の九鬼周造の言葉に通じる表現なのだけれど、「絶対値」という言葉を人間の大小の表現として用いていたのだネ。プラス・マイナスのいずれにしろ、その人間のキャパシティの大小を「絶対値」で表現していたのが面白かったナ。それで言えば、他のベテラン出演者に比べるまでもなく、「広い体験」も「深い思索」も欠落しているので出まかせばかり言っている、古市という人間の「絶対値」の小ささは一目瞭然だ。若い世代に視聴者を広げたい、と短絡的に狙って古市なぞを起用したとすれば、番組を見なくなる人が増える危惧の方が大きいだろナ。渋くても「深い思索」が聴ける番組であり続けて欲しいネ。
【読む・野球】松波太郎のエッセイ 「ロッテの澤村」が敗因 江川卓 小林繁投手
お仕事を1つ仕上げたり、書いていただいた書評に対する感想を書き上げたりしたので、先般紹介したタロー(松波)さんのエッセイ集『本を気持よく読めるからだになるための本』(晶文社)の1つの章を読んでみたヨ。「沢村投手の刺鍼事故について」という章だけど、なかなか文章に工夫が施されていて作家づいている。新聞記事に至るまでのプロセス自体を読ませるのだネ。スムースに「巨人、沢村に謝罪 はり治療で機能障害」という見出しの記事が引用される運びは上手いけれど、ボクの記憶とは違っていて巨人が謝罪とは驚いたネ。沢村が自分の不調を球団のせいにしてゴネている、と事件を理解していたからネ。トランプと同類の存在で、己の間違いを他人のせいにして自分を守り続けているように、3歳児並みの精神年齢だと受け止めていたのだナ。それがまさか球団の方が非を認めるとは・・・
新聞記事の引用の後は、それをめぐって患者とのやり取りを描写しながらも、はり治療を施術した球団トレーナーのミスという記事に疑念を呈して行く。自照性を欠いた沢村という存在に不信感と嫌悪感しか抱いてないボクとしては、タローさんの書き方は絶妙に沢村がゴネまくってトレーナーや球団のせいにしている様を暗示していると読んだのだけどネ。その絶妙な叙述を味わわねば、フツーの文章になってしまうのではないかナ。
タローさんの筆(という表現は古くなったから「キーを打つ指」とでも言うべきかな)はさらにボクの心を見透かしたように、もう1人の「不信感と嫌悪感抱いてない」巨人の投手の新聞記事を引用する。1987年の江川の引退騒動のものだから、「嫌悪感を抱いていた」と記すべきだろう。巨人に入団するために小林繁という巨人の投手を阪神に追いやるという、自分のために他人の人生を犠牲にすることも憚(はば)らないというジコチュウの生き方は、絶対に許せないと思っていたのだナ。それが十数年後だったか、江川が素直に小林に謝罪した姿をテレビで見てからは、小林と共に江川を許せたのだネ。小林さんが亡くなったのは、それからしばらくしてからだったかナ。負け犬根性の阪神タイガースにカツを入れてくれた素晴らしい投手だったけど、自分をヒドイ目に遭わせた他人でも許せた、人間としても大きな人だったナ。
それはともあれ、江川もはり治療を受けていたとは知らんかったナ。もっとも、江川の場合は沢村と違って他人のせいにしたり・迷惑をかけるという話ではなかったネ。むしろはり治療のお蔭で投手生命が少し延びたという記事だったネ、タローさんの興味もハリ治療つながりだったようだ。
「ロッテの沢村」と記す喜びといったらないネ、(江川と同じく)巨人に執着して他人(他球団)を出し抜くという手口を使った極悪人が巨人を追い出され、いくら活躍したところで「巨人の沢村」ではないという敗北感・虚無感を味わうしかないという気持良さ! でも先日のCSの初戦で2安打2四球で敗戦投手になったのだから、純然たる敗北感だったネ。ロッテの首脳陣が、出来不出来の激しい沢村を信用し過ぎたための敗戦だったネ。ノーコンの沢村が四球を続けて満塁にして、3塁ランナーがいるのでフォークを投げられない(投げミスで捕逸が怖い)ので直球しか投げられずに、最後には甲斐に内野ゴロを打たれて決勝点を奪われた次第、サイコーの試合だったネ。ロッテの選手には可哀そうだったけど。
野球に関心のないファミリーの皆さんにはナンノコッチャだろうから止めるネ。
【読む】『シドクⅡ』に対する書評(4) 柴田勝二
残る三島論についても言及して終りたい。
「綾の鼓」で「百(回)」という数字に「自己閉塞」している岩吉が、《次の〈百一回目〉を打ったとしても、葉子がそれを聞いたとは考えにくい》と柴田氏は言うのだが、まさかそんなアホなレベルのことを問題にしているのではあるまい。問題は葉子ではなく岩吉の「自己」閉塞であり、続いて《「弱法師」における俊徳の幻想が級子に届かないのと同じく》と言うのも柴田氏の着眼がズレているのであり、ここでも問題は俊徳の自己「幻想」であり、それが級子に通じるか否かではない。
《とくに最後に取り上げられている三島への視角は今述べたような斬新さがあるだけに、同じ構図をもつといえる『鏡子の家』や『鹿鳴館』なども取り込んで論を構築すれば、さらに説得力が高まったのではないかと思われる。》
書評の結末まで飛んでしまったけれど、くり返しを避けたまでで大差あるまい。ここでは柴田氏の言うことに素直に従いたい。確かに別の作品を取り込めば、拙論に説得力が増すのはそのとおりだろう。しかし「絹と明察」は数ページで挫折し、「鏡子の家」は山田夏樹さんがヒグラシゼミで発表してくれたので読めたようなもので、三島の現代長篇小説はツマラナクて腰が引けるのだナ。ただ「鹿鳴館」だけは柴田氏が引いてくれているように、《ミシマはやはり小説よりも戯曲だ》と断言しているボクとしては恥ずかしい話、未読のまま数十年経ってしまったままでいる。「鹿鳴館」が刊行された時だったか、磯田光一(と記憶するが)の時評で結末の台詞を取り上げていたので覚えている。
「サド侯爵」や「わが友ヒットラー」は1度ならずゼミで取り上げたものの、「鹿鳴館」はスルーしたまま今日に至っている。これだけは死ぬ前に読まねばならぬとは思うものの、さりとて読んで論に取り込んでみようという気はまったく起きない、拙稿の結論を当てはめるだけになだろうから。先般三島研究のトップランナーであるシュウメイ(佐藤)さんから新刊の岩波新書を贈られた(紹介したとおり)礼状に、三島にも(太宰はだいぶ前から)関心が無くなったと記したばかり。有名な「太陽と鉄」や「文化防衛論」などは読まずに終る(死ぬ)だろうナ、ますます関心が無くなっていく。『シドクⅡ』の「如是我聞」論で論じたとおり、〈強者の自己完結〉には出口が見出せないからネ。
【言葉・見る】古市憲寿が「英雄たちの選択」に登場?! 佐々木道誉 「寺島実郎の世界を知る力」 東浩紀と梅原猛
まずは「言葉」から。
ずいぶん前からネタ切れで悲鳴が聞こえてきそうだけど、朝日新聞連載の鷲田清一「折々のことば」に久しぶりに響いてきたものが選ばれていた(11月11日)。
《いったい私は深い思索には、広い体験が不可欠であることを信じている。》
九鬼周造「書斎漫筆」からの引用だそうだけど、岩波文庫にもなっている『「いき」の構造』ほど著名なものではないので、初耳の書名(?)だった。『「いき」の構造』は読んでおくべき本だと思うけど、「書斎漫筆」の言葉の重さが分かるには時間が必要かもネ。若い批評家が世に出やすい時代のようだけど、おおむね観念的過ぎて「思索」が地についてないので「画餅」の虚しさと感じることが多い。古市憲寿や三浦瑠麗などがその典型だろうが(と言うと三浦から「一緒にするナ!」と抗議されそうだけど)、その古市が「英雄たちの選択」に出てきたのでビックリしたヨ。
来週の水曜午前8時からの再放送を見てもらえば、噓でも冗談でもないことが分かってもらえるだろう。そこまで卑屈に人気モノを呼んで視聴率を上げようとすることないだろう、と磯田道史さん(でなければ番組プロデューサー)に失望してしまった。まるで「ぶらぶら美術館」で性懲りもなく低能発言ばかりの小木博明を使っているようなものだ。ただ脳科学という分野から意想外の発言をする、中野信子さんのような稀少な立ち位置を確保していない古市がたまたまゲストに迎えられたのは、テーマが佐々木道誉だったからだろう。裏切りを旨として・バサラ者として名を残している道誉なら、古市でも発言の余地があったのだろう。
「だろう」としか言えないのは、以前道誉を主人公にした小説を読むほど興味のある武士ながらも、始めの方だけは聴いていながら眠り込んでしまったのだネ(昼寝が不十分だったのかな)。でも古市が道誉をパリピーだと言ったのはハッキリ覚えている、聞きなれない言葉だったしそれがパーティー・ピープルの意だと説明されてチョッと分かった気になれたのは記憶している。理解不十分ながら道誉は今のパリピーだと言った古市の趣旨は、何となく伝わった気になれた。古市その人のように、軽率で目立ちたがる存在というイメージなら、そういう捉え方もあり得るだろうから。ともあれ再放送はシッカリ見なくては!
今朝、東京MXで最近始まったらしい寺島実郎の番組を、偶然ながら途中から見ることができた。「寺島実郎の世界を知る力」という名前で11時からだけど、実に広くて奥行きのある「知」を披露してくれているので驚いたネ。朝8時からのTBS「サンデーモーニング」でよく見かける人だけど、その際の説得力のある発言を裏付けるような知識と考察が、この新番組ではふんだんに披露されていたので感心するばかり。アメリカでも中国でもない第三の道、納得だネ。
古市や三浦がフジテレビの「ワイドナショー」には出られても、「サンデーモーニング」には呼ばれない理由がハッキリ分かるというもの(他にも具眼の士が揃っているし)。それでも荻上チキは若いながらも、出演して論議に加わっていたことがあったナ、スゴイねともあれ、寺島さんの新番組、毎週欠かさず見たいネ、おススメ!
以前テレビ番組で、東浩紀が梅原猛を若い人たちと読んだり・皆で梅原の話を聴きに行ったりしているのを見たけれど、若者の教祖のような東浩紀も梅原の「広い体験」に裏付けられた「深い思想」が身に沁みて分かる年齢になったと理解すればいいのかな?
【読む】『シドクⅡ』に対する書評(3) 柴田勝二
書評について書いていたら、シズカちゃんから『シドクⅡ』を読み終えたというメール(旧姓・藤本)が来たヨ。産休で余裕ができたので読みきったそうだけど、「金閣寺」を再読する気になったというのは嬉しかったネ。静香は本名だけど、ドラエモンのしずかちゃんに似たイメージのシズカちゃんが、子供を産んだり育てたりする姿は思い浮かべにくい。児童文学が好きでオンラインで講座を受講しているというのだから、文学が好きなのだネ。それにしてもボクの本が胎教に良いとも思えないのだけど、ダイジョブかな?
ともあれ書評についてのコメントだ。特にこのままだとボクがアホみたいに思われてしまう箇所に対して、弁解させてもらいたいのだナ。ファミリーの中には研究者もいて、書評が載った学会誌を読む仲間もいるだろうし。
① 先に引用した「風博士」などに関する言及を、《これは評者も同感する安吾作品の特質だが、》(「安吾作品の構造」)としながらも《その収束点の不在が何に由来し、何を物語るのかという探求はとくになされていない。》(同)と続けるのだが、次の段落で「何やらゆかし、安吾と鷗外」から引用されているとおり、《「中心(主題)」が不在である》という答えを出したつもりだった。柴田氏が言う「何に由来し」ているのかは、「安吾論の構造」でも《テクストが一極に収斂して行かないのが安吾作品のスキゾフレニア(分裂症)的な特徴であり》と論じているとおりである。
柴田氏がそれ以上何を求めているのかは不明なので応えようがないが、「何やらゆかし~」で安吾と鷗外(の歴史小説)との共通性として「中心(主題)」の不在を指摘している点は共感してもらえたものの、《また歴史への眼差しの異同を探る対象は芥川龍之介や遠藤周作であっても良いはずで(略)論の興趣は増したと思われる。》と言うのは誤読による無理難題と言わざるをえない。未読の遠藤の歴史小説は知らず、龍之介とくれば「中心」のある「主題小説」の名手だからハナから比較するまでもなく論外である。
論外といえば檀一雄の章で(おそらく柴田氏は檀をあまり読んでない)、「火宅の人」と太宰とは《「炉辺」を嫌悪するロマン的な衝動において共通性を示す太宰との比較については、(略)さらに踏み込んだ考察が試みられてもよかっただろう。》と言うのもスジ違いというほかない。先の《探求はとくになされていない》と同様で、漠然とお茶を濁す書評の決まり文句なのかもしれないけれど、明確な批評を突き詰めるべきだというのが私の立場である。
厳しい言い方になってしまったものの、そもそも太宰・安吾・檀・三島という論者の守備範囲をすべてカヴァーするのが無理な話で、不案内な檀の論についてはスルーしておくのが無難なわけだ(ボクならそうするところ)。やはり柴田氏の人の良さが出てしまったのだろうけど、「火宅の人」論の面白さは檀のテクストがきちんと読めることを証明した貴重なもので(自分で言うナ!)、作家・檀一雄を排除して分析しきっている。だから太宰の家庭小説との比較など眼中になく、その意味も認められない。
@ 長くなったので、三島論については改めて。