博士論文審査(安部公房)

今年1月から4本目(1本は国語科教育)の学外の博論審査がやっと終わり、肩の荷が下りて一息吐いています。
安部公房で実証的な調査研究と、現実の動向とテクストとの接点を論じるという研究の2本立てで1200枚という大部の論(グッタリ!)。
重いのは物理的なものだけに止まらず、論の内実も十分に重かったのは、実弟実妹を含む70名の公房関係者(多くは老齢に達している)の証言を集めているせいもある。
公房のみならず、こうした貴重な研究は他のどの文学者についても不可欠に違いないのだが、どの文学者でも疎かにされてきたものである。
他ならぬ私自身も、昔、戦時中の小林秀雄の動向(特に在中国時代)を調査しなくてはいけないと思いながらも、まったく手つかずのまま証言者との接触の機会を失っている。
今回の公房論を読みながら、猛省はしても今さらどうしようもない思いを噛みしめさせられた感じだった。
まことに貴重極まる証言集成ではあるが、博論全体としては他のテクスト(作家というテクストも含む)分析の論の部分との違和感は拭えなかった。
当該大学における博論の体裁を整えるための事情もあり、指導教員の意向だったと知って納得したものの、本にする際は別立てにするべきだろう。
テクスト分析の方も、時代の動向とテクストとの関連を「事実還元主義」的な陥穽にはまることなく論じていて、盲点を突かれる思いを繰り返した。
そうした思いは私に止まらなかったからこそ、全国区の学会誌に複数回掲載されたわけであろう。
本論は紛れもなく公房研究上、無視できない業績として位置づけられると考えるが、種々の行きがかりもあって認めたがらぬ向きもあるようだが、ケツの穴の小さいヤカラが遍在するのは承知の上で論者には今後も精進して欲しいと思う。
(「精進」はさすがに古いか。そういえば、公開審査の席で「世には作品論(古い)とテクスト論(新しい)の二つがあるのではない。面白い論と下らない論の二種類があるだけだ!」という名言を吐いたのを思い出す。)