論文と女は量より質(今年度の卒論・修論)

「○○と女は量より質」という言い方は、イチロー関谷の信念を端的に表していて、何にでも当てはまる。
○○は酒でもいいし、ジンセイの時間でもいいし、釣果にも当てはまる。
ともあれ今回言いたいのは、今年の卒論も修士論文も揃いも揃って長すぎる!
「談合」でもしたんじゃないかと疑いたくなるほど、ほぼ全員が長かったのでビックリ。
沢山書けばいいというもんじゃない! と後輩諸君は銘記して欲しい。
学大に赴任して間もなく、「卒論は百枚以上という規定は無くていいと思う。五十枚でも良いものは十分評価できる。」と教室会議で主張して認めてもらった経緯がある。
もっとも、その時は敬愛する外川先生(漢文)がいらっしゃって、ボクの主張に賛同してくれたせいもあった。
ついでに外川先生の思い出を付け加えておくと、その頃蓮見ナントカというおバカな学長がいて、非常勤講師の届け出をしてなかった教員を処分する案を全体教授会に提出したものだ。
以前のブログにも書いた記憶があるが、背景には筑波大という超管理大学における体育教員の学閥争いによる処分がなされ、蓮見学長もそれに合わせたかったのだろう(背景については明らかにされていなかった)。
ボクも背景は後で知ったのだが、とにかく<処分>という言葉を聞くと条件反射的に反対するように学生時代に刷り込まれていたので(医学部と文学部の学生処分撤回で闘ったので)、数人の先生と共に教授会で反対発言を繰り広げて学長案を否決に導いた。
教授会の帰り道で「あんな程度の違反なら、学長室に呼んでチョッと注意して済ませばいいものを!」と言っていたら、外川先生が「あなたの言うとおりだ。」と認めてくれたので狂喜したのが懐かしい。
そのボクが、被害者の事情聴取も終わったような、クレイ爺のセクハラ等に対しては厳格な処分を望んでいるのは、良識・常識・正常さを欠いたヤカラには口で言っても分からないからだ。
特にセクハラは繰り返しがちなものだそうだから、痛い目に合わせておかないと被害者が増えるだけだろう。(そろそろ処分が出るのだろうけど、公表してもらいたいものだ。)
話が跳ぶのがボクの特徴なんだけど(死んだ談志が自分のこととして、天才の話の特徴だと強弁していたが)、論文はダラダラと書くのではなく、端的に簡潔に書く方が説得力を持つ。
内実を伴って長くなるのなら、長くは感じない。(イチロー先生の論を読んでみよ!)
内容が無いのに長いから退屈で、長〜く感じてしまうのだ。
後輩を前にして発表させた論文へのコメントでも言ったのが、調べたことをそのまま全部書いてしまうから、内実のない長さになってしまうのが昔からよくあるパターン。
調べるのは自分のためで、論文は他人を説得させるためのものなので、誰のために書くのかをシッカリ自覚して選びつつ書くことだ。
「質より量だ」とほぼ全員が誤解したせいか、今年は大井田先生と二人でひたすら疲れた。
来年度からは、もっと心地よく疲れたい、お願いします!