東京学芸大学執行部への公開質問状〜〜中○○○のセクハラ疑惑について(資料編、その1)

今日は10月4日に開催予定の評議委員会での、ボクの「陳述」内容を執行部に提出する締切日だったので、他の仕事が済んでから急いでまとめて送った次第。
自民党の信頼できる人のように見えてきた(皮肉だヨ、念の為)野田首相の「一蓮托生」など、時事ネタも使って笑ってもらったつもり。
(それにしても慎太郎のバカが余計なことを言って騒いだので、学大でも中国の留学生が危害を加えられないか怯えている。カワイソーに!
戦前とは違って今の日本人は、中国のオバカな若者とは異なりオトナの言動ができるから安心しているが、それにしても中国の日本企業の被害は大変なもので、責任の大半はバカ共を焚き付けた慎太郎のバカにある。
領土も言葉も<多義性>を良しとする。<一義的>に決めつけようとするから間違うのだ!
慎太郎のバカには早く引退してもらいたいけど、慎之介には三冠王を取ってもらいたい、「ナベツネの巨人」は大嫌いだけど。)
急いだので意を尽くせない所もあるものの、あんまりこんな事ばかりに時間を費やしてもいられない。
いくら論理を尽くしても、保身一筋でボクの主張をかたくなに理解しようとしない者どもを動かすのは無理だから。
中某の種々のハラスメントに対する牽制は十分できただろうし。
これでも通じなかったら、ホンモノのビョーキだろな。

「公開質問状」じゃ長すぎるので、その要点を箇条書き的にまとめたので、長〜い質問状を読むのがタイヘンな人には向いている。
弁護士の名前を伏せたのは、その無能ぶりをハッキリ記したので、その実態が知られて仕事が減ってはカワイソーだから。
でもあの「二者択一」で押すだけの弁護士さんなら、中某に対して「やったのか、やれなかったのか?!」という具合で攻め上げる検事の方が向いている。今回も中某の名もここでは伏せてあげた。昔から隠しようがないヤッカイモノだけど。

ボクは至って元気だから、皆さんご安心下さい。
この書類を出したら一区切りついたので、「夜7時頃の昼飯」のためにイタメシ屋に行く代わりに、コンビニで赤ワイン(シラーズが安くてケッコウ飲めた)とイタリアン料理(?)を買ってきて楽しんだ。
「その6」はしばらくお待ち下さい、執行部に対する怒りの言葉がまだ噴出してくるので。
それにしても情けないナ、村松・大竹ペアは、あんなにひどいレベルとは思わなかった。
学長になる前は、「女性学長もイイんじゃない」と言って学生を驚かしたものだけど。
これでも前回のアメリカ大統領選挙ではヒラリーさんに期待したんだけど、女性という弱者の味方として。
女性以上の弱者であるアフリカ系から大統領が出るなどとは、全く思いもよらなかったから。
オバマは続投してもらいたい、経済は誰がやっても同じようなものだし。
そうでもないかな、純一郎・平蔵ペアの後では日本でもホームレスが急増した印象だし・・・
いろいろ言い過ぎていたらワインのせいなので悪しからず!
数日前(?)の留守中、重大なセクハラ被害者の一人(未知)が謝意を伝えに来てくれた可能性があるけど、留守で会えなかった。
改めて来てくれるそうなのだけれど、一人じゃ来ずらいと言ってるそうなので、「ボクは中某と違ってセクハラしないから、安心していらっしゃい!」と伝えてもらった。
       

    陳述請求書の「請求の事由」
                             関谷一郎

 審査に関わった人達が、裁いているつもりでいる自分自身の言動を対象化できておらず、自身が弁護士の(学長・大竹副学長の場合)あるいは執行部(審査委員の場合)のイエスマンになり切っていることに気付いていない。あるいは気付きながらも、その後に判断停止(エポケー)している。その結果ひねり出された審査結果の<不当性>は以下のとおり。

Ⅰ 一回限りの委員会で拙速かつ一方的な決定をした上で、それを押し付けるという茶番を演じているだけである。
  
(A)反論の余地が与えられなかった結果、関谷の考え(殊に言動の意図・動機)がいっさい考慮されていないので、ひたすら「憶測や伝聞のみにより」関谷の文書が解釈されている。文書を<意図>や<状況>から切り離して<一義的>に限定しようとしているので、委員会も「審査の理由」も共に「言葉狩り」に終始するという悪意に満ちている。
(B)関谷が中某に対して「言葉の暴力」を発揮する個人的な理由を持たないにも拘らず、今回の文書・ブログに限っては中某を茶化しつつ批判することにより、「何をやっても許される」という尊大な自尊心を挫き、セクハラ等を繰り返さないように牽制するという「意図」があったわけである。敢えて個人で立ち上がったのは問題解決の能力が講座を越えており、キャンパスライフ委員会も有効に機能しえなかった上に、執行部が前向きに取り組もうとしなかったからである。
(C)関谷がセクハラ等の被害者を癒し・守るべく闘ったのは、講座構成員に回覧された被害者の証言集で被害者の痛苦を<見ぬフリ>できなかったからである。執行部は法的観点から、証言集が「伝聞」によるものが多いという理由で無視しようとしているのは、被害者に寄り添った言動を追求するという教育的観点の喪失である。

Ⅱ 審査委員会の構成が極めて不適切で、関谷を裁く資格・能力が根本的に欠けている。

  (A)一回限りの委員会の出席者は、弁護士を中心に家庭科教育法(大竹副学長)・音楽科教育学・美術科教育学・美術科教育学・環境科学・教職大学院といった面々だけであり、関谷の「審査の理由」の主要な問題である「用語・表現」を論議する専門領域の人が一人もいないという不自然極まる人選で審査が強行されている。
    (人文社会科学系の審査委員の一人は言葉の専門家であるにもかかわらず。中某のセクハラ等の証言を集めた教員と婚姻関係にあるため、排除されたものと考えらえる。もう一人の言葉の専門家と社会学の委員の欠席の理由は不明だが、関谷と同学系なので排除されたという「憶測」は可能。)
  (B)出席しなかった委員は、委員会の結果を出席者からの「伝聞」や「憶測」によって関谷を決めつけるしかない手順になっている。

Ⅲ 審査委員会が主体性をうしない、大学人(教育者)としての知性を発揮することなく弁護士の法的判断に盲目的に従っているだけなので、法的観点が前景化してしまって教育的観点が全く欠落している。
  
  (A)委員会における弁護士の質問は、関谷の文書における文言を弁護士の意向に沿って<一義的>に限定しようとする無理の繰り返しなので不毛に終わっている。
     弁護士のこの方法は中山氏を追及する場合なら、「セクハラ等をやったか、やらなかったか?」という<事実>の確定の問題なので相応しいであろうが、関谷の場合は<多義的な言葉>の<解釈>の問題なので全く適切ではない。法的観点から豊富な言葉の世界を二者択一的に<一義性>に絞り込もうとするのは「言葉に対する暴力」である。
  (B)教育的観点を放棄し、もっぱら法的観点から関谷の言動を「言葉の暴力」というイメージで彩色しようとする手付きは追及されねばならない。のみならず関谷の文書を文脈から切り離して低レベルの誤読を繰り返す言語理解能力によって、関谷を「人権の侵害」者として「処分」しようとするのは心外極まりなく、
    関谷の「人権」を「侵害」する行為に陥っているということが理解できていない。
  (C)たった一回の審査委員会ながら、弁護士は「時間だから私はこれで」という言葉を残して帰り、代わった大竹副学長がさながら自身その弁護士であるかのように口真似しつつ不毛な質問を繰り返した様は、教育者としての主体性の喪失であり、学芸大学の知性は地に落ちたも同然である。また文書を誤読するのみならず、業務上教えられた通りのルーティンワークの質問を繰り返しすことに終始し、時間がきたら立ち去っていく弁護士の「ヤッツケ仕事」ぶりを見ると、そのレベルの弁護士に「一蓮托生」している執行部・審査委員会の大学人としての退廃は目に余るものがある。

Ⅳ  関谷の言動は被害者を癒し・保護しつつ、セクハラが許容されているという大学像から学大を守ろうとしたにも拘らず、逆に「処分」という形で言論弾圧の機会に利用している。関谷の言動からその<意図>が切り捨てられた結果、いわゆる「情状酌量」の可能性の余地を考慮することなく、バカバカしいほど大げさな「処分」をしたところには執行部の悪意ある<意図>が明確に感じられる。