セクハラ、その5

≪審査委員会≫
「審査の理由」の2には審査委員会の「判断」が明記されている。面倒ながらくり返す。
「関谷が行った行為は、十分な根拠を持たないままに中某を非難したこと及び差別的な表現をしたことであり、中某の人権を侵害し、中某に対する信頼を著しく損なう行為である。」
 「十分な根拠」はこれまでにも「十分」展開した。それにしても「中某に対する信頼を著しく損なう」とは笑止千万ではないか! いったい中某氏を知る誰が彼を「信頼」しているというのか?!(むろん「怪文書」事件に絡んでいるような極々一部の者は除く。)中某氏をよく知る国語講座(別件の「容疑者」一人も実のところ本心は不明)でも、他の系に比べれば知る人の多い人文社会科学系のメンバーでも、「中某に対する信頼」を置く人は極端に少なかろう。いれば「信頼」の内実を教えてもらえるよう、本心からお願いしたい。国語講座では例の「キチガイ沙汰」事件で、上記2名の外の力を結束して修士論文「合格」者を守った。人文社会科学系の教授会では「怪文書」とそれにまつわるビール券配布事件をネタに、「十分」笑わせてもらった。教員・学生・事務官が抱くその他の中某像も、「信頼」とは程遠いものである。可能ならば人文社会科学系でアンケートでも取ってもらえれば明確になるであろうし、授業アンケートの記録があるなら公表は無理でも執行部と審査委員会はそれを参考資料としてもらいたい(たぶん中某氏は授業アンケートを実施していないだろう。学生から相対化されることを何よりも恐れてるから)。学外の日本語学の教員・学生でも中山氏の「常識から外れている」イメージは共有されているようで、ある私立大学の懇親会で学大の困り者として中某氏の名前を出したら学生の間で失笑が漏れた上に、教員の一人が「彼は自分も行っていた○○大学の非常勤を自分から止めたと言いふらしてますが、実はクビになったンですよ。」と教えてくれた。学内のみならず、他大学に行っても学生等と問題を起こしているらしい。
 要するに審査委員会に出席者には人文社会科学系のメンバーが一人もおらず、中山氏の為人(ひととなり・本性)を殆ど知らぬ人達が「中某に対する信頼」という言葉を実体抜きに抽象化して理解した結果が「審査理由」の2を導き出したということである。それだけでも私を「審査」する資格を疑うが、実はそれ以上にこの審査委員会の出席者には根本的な欠陥がある。学内規定には「審査委員会は、次に掲げる者で組織する。」とあり、以下のとおり。
(1) 副学長 1名 (2)学系長 (3)各学系選出の評議員 各1名 
(4)学長が委嘱する者 若干名
 何と上記の(2)と(3)に当たる人文社会科学系の方の出席が無かったのである。私が同学系だということで自粛したのか、させられたのかは不明だが、これで(4)に当たる久保田弁護士の「法の論理」を相対化できるのだろうか? そして言葉に命(生活)を賭ける私の文書を正確に理解しつつ、真っ当な議論ができるのだろうか? ここではお名前を伏せるが、出席した方々は一人を除きよく存じ上げていて、人間として・教育者として敬愛する人達である。しかし話が専門領域になれば別であって、家庭科教育学(大竹副学長)・音楽科教育学・美術科教育学・環境科学・教職大学院といった方々に私の存在に関わる問題を議論抜きに「判断」されるのはまっぴらである。「議論抜きに」というのは事実で、弁護士からの一方的な言葉の意味確定作業に付き合わされただけで(弁護士退席後は大竹副学長が久保田氏の口真似しつつ続けたので、二人羽織のようで内心笑えた)、何らの反論・議論の機会も設けられなかった。その後審査委員だけで私に対する上記の「判断」が出されてのであろうが、平常から他人(ひと)を安易に信用し過ぎると言われる私は、発言は無くとも私の立場は理解してもらえているという楽観に浸っていた。中には前学長の時代に、講座内のアカハラ(教員が院生の論文を盗作した)を執行部に訴え出たという勇気ある方もおられたからである(結果は渡辺健治副学長に握りつぶされた)。しかしいかに勇気は衰えなくとも、久保田(対)関谷という異種格闘技の不毛さは伝わらなかったと思われる。委員会席上では全員が沈黙を守りつつ、弁護士主導の執行部のイエスマンとなって<見ぬフリ>に徹したものであろう。今の世では<見ぬフリ>が人の常、私は審査委員会の出席者を責めるつもりで言っているのではないので誤解しないで欲しい。ましてや執行部に組み込まれてしまえば、反対は言いにくいものであろう。一度ふさいだ耳は聞こえにくくなってしまうのも已むをえない。ネットで繋がるのが基本になってしまった社会では、<見ぬフリ>をするのがフツーになってしまった。昔は親よりも近所のオヤジやババァに悪戯を咎められたものであるが、そういう抑止力が社会から失われてから久しい。代わりに監視カメラが気付かぬまま自分を見張っているという、生きにくい不快な時代を我々は強いられている。学内で女性留学生という最弱者に対するセクハラを許してしまったという事態をきっかけに、イジメや犯罪を<見ぬフリ>をしないための教育はどうあるべきなのか? という教育的観点で議論して欲しかったのである。
 先述のように、蓮見音彦元学長が無届けで非常勤講師をしたという理由で体育科と英語科の教員処分を企んだことがあった。その際は私のみならず少なからぬ教員が反対発言をし、学長提案を否決して事無きをえた。当時第一部部長(今の学系長に当たる)だった小池正胤先生から「学長から自分に合わせて発言をするように言われたけれど、困るよネー。」という裏話を聞かせてもらったことがある。もちろん小池先生は学長の意向に反して良心的沈黙を守られたわけであるが、反対発言をした私には「あなたの発言は良いですが、何ですか、教授会でそのピンクのカーディガンは!」と相変わらず厳しかった。思えば当時はまだ教授会に権限があったので、学長が不当な処分をしようとしても阻止することができたわけである。それが今やトップダウン形式で執行部の意のまま、逆らう者を「不当処分」しようとしているのであるから、学芸大学は「暗黒時代」に突入したと注意を喚起しておきたい。ゼミ機関誌『青銅』に書いたとおり、「学芸大は腐敗の道を歩」んでいるのは間違いない、残念ではあるが。

@ この数日間ずっと以上のようなことを考え続けていた。思考は続くが睡眠不足の身体を守るためにいったん中断する。後半は未定稿というより初稿に近い粗さでお恥ずかしいが、いずれいつもの見事な文体目差して完成させて行くつもり。