更新を忘れていてゴメン!
かの子「東海道五十三次」は宮内淳子さんから名作だと聞いた記憶があったので、読んだつもりだったけど直前に未読だと判明。
急いで読んでみたら、かの子にしては不思議なテクストでそそられたが、クリマン師範代も同じような感想を持っていた。
マンジュはいつも通りパワフルな発表で、この意欲があれば成長し続けること間違いなし、レジュメを短時日のうちにまとめ上げたのもその証拠。
ただし議論がほとんどマンジュに対するツッコミに終始したのは、読み慣れない作家のテクストに挑戦したためなので気にするには及ばない。
卒論でかの子を選んでいるサナエちゃんは、さすがにツボを押さえた発表のように見えたものの、本人にその自覚が欠けていたのが惜しまれる。
父親に都合よく育てられたヒロイン(手許にテクストが無いので名が分からない)が息子を音楽家に仕立て上げようを考えているのは、息子に対する愛などではなく自己愛でしかないという観点は重要だということ。
と言うことは、宮内論の説くヒロインの父からの解放は誤読というほかなく、彼女は父をなぞって息子を自己満足のために育てようとしている教育ママに堕しているだけ。(宮内論はレポに紹介しながら、自分では未読。)
レジュメに「人工」という言葉を使っているのは、その意味でも重要なことに気付いていると思う。
そもそも広重の「東海道五十三次」が基本的には実景を描いたものではなく、先行する名所絵を基に想像で描いたものだったと記憶する。
日本画の基本がそもそも実景を対象とはしていなかったはず。
だから「人工」的な風景を描いた広重の名所絵をなぞる通人達は、現実世界に生きながらも東海道という土地では「人工」の重ね絵を擬似体験していることになる。
次回は坂口安吾の「花火」。