「日本人は何を考えてきたのか」  歴史と人間(の成熟)  漱石・龍之介など

よく似た番組名だけど「考えてきたのか」はずいぶん前の再放送で、「めざしてきたのか」がいきなり4回(?)で終ったと思ったら同じ番組枠で「考えて〜」の方に切り替えられていた。
これも実に充実した番組なので未見の人には特にお勧めしたいもの。
でも第1回からの再放送ではなく、9回目の「大本教」と10回目の「北一輝大川周明」をやっていたのは何故だろう?
9日にも「考えて〜」をやることになっているようだけれど、第何回の再放送なのだろう?
1〜4回は全然録画していないので、その辺をやってくれることを期待しているのだけれど。
ちなみに5〜8回は河上肇幸徳秋水吉野作造などが取り上げられていた。

他のお勧め番組もここに記しておきたい。
とはいえ取りあえずは歴史モノばかりだけれど、トシをとると歴史に興味を持つようになるのが人間の一般手的な傾向のようだ。
最近はBSフジの「項羽と劉邦」を欠かさず見てるし、『歴史群像』という古雑誌で「項羽劉邦戦記」をよんだり、北方謙三三国志』を少しずつ読んだりしている。
年金生活者のダイゴ味といったところかな。
著名な文学者でいえば、見やすい鷗外のみならず藤村・花袋などは歴史に向かった例で、漱石や有島などは長生きしても歴史には向かわなかったものと推察している。
歴史に向かうのが「自然過程」(成熟)なら、後者は加齢しても成熟しなかっただろうというのが私見だからだ。
彼らの成熟を阻んだものは、それぞれが抱え込んでいた〈観念〉であり、白鳥も長生きしたものの歴史に浸れなかったのはキリスト教という〈観念〉に囚われていたからだ。
志賀(や実篤)も漱石たちと同然だと思われるが、加齢と共に歴史に向かわずに作家としての死(書かなくなる)を迎えたということだろう。
谷崎が歴史に埋没することなく「瘋癲老人日記」に登りつめたのは、彼にとって「性」は〈自然〉ではなくて〈観念〉だったからだ。
などと記しているが、実は生涯2番目の論である「白鳥論序章」(『現代文学』22号)で書いたことなンだな。
ここで龍之介は若くし歴史小説を書いたじゃないですか?! と小賢しげに言ったらオバカだよ。
龍之介は歴史を背景・素材として使用したけれど、ありゃあ歴史小説なんかじゃないのだヨ。

旧稿をくり返していたら、歴史おススメ番組を書く余裕がなくなっちまった。
また!