一人称小説  桐原国語教科書  指導書コラム

預かった修論未定稿や、制作途次の卒論・院生のレポート類などをチェックしようとしているのだけれど、なかなか集中できない。
修論の方はやっと朱を入れ終わって、直接指導の日程を調整しているところだけれど、後の二つは途中まででストップ状態で待たせていて心苦しい。
あれこれ並行してやっているせいであるが、その一つに桐原書店の教科書編集にまつわる仕事がある。
教材探しや会議などのほかに、最近コラム記事を要請されたので思い付くままを記して初稿とした。
(以前、教材として採用した太宰治「畜犬談」について書いたことがある。)
今回は「富嶽百景」を素材に一人称小説の特徴について、というお題である。
字数制限のために半分ほどに削らなければならないけれど、削る前のものの方が分かりやすいと思ってここに載せておくことにした。
桐原がいかに努力しているかをお伝えできれば、と考えた上での「宣伝活動」だと受け止めてもらえれば幸い。

 一人称の小説が三人称のそれと差異化される目立った特徴は、語り手が登場人物としてテクスト内に身体性を表している点である。三人称の語り手はこのような身体性を持たないので、いわゆる「神の視点」などと呼ばれるわけである。具体例に即していえば、「富嶽百景」の「私」は作中で主人公として活発に言動しているが、「羅生門」の語り手である「作者」は作品内の時空から超越した位置から語っていて、下人の生きる世界とは異なる地平にいるわけである。念のために付しておけば、この「作者」は芥川龍之介という現実存在とは異なり、あくまでも「羅生門」という作品の言葉を語っているフィクショナルな存在であって身体性を持っていない。
 一人称の小説を読む際に気をつけなければならないのは、「私」が語る「私」と語られる「私」とに二重化されている点である。この二つの「私」を混同すると、一人称の小説を正確に読めなくなるので常に二つの「私」の差異を意識しているべきである。語る「私」は前述の「作者」と同じく作中には身体性を持たず、語られる「私」が登場人物としての身体を持って言動するわけである。留意すべきは二つの「私」が異なる時空に属している点であり、語る「私」が属しているのは語っている〈現在〉の時間・空間であり、語られる「私」が生きているのはすべて〈過去〉の時空である。「富嶽百景」でいえば、語られていることは既に過ぎ去ったことであり、例えば「三年まえの冬」や「昭和一三年の初秋」が過去の時間を表しているのは見やすい。「三年まえ」がどの時点から振り返って「三年まえ」なのかは、語っている〈現在〉からだというのは言うまでもない(蛇足ながら付け加えておけば、この〈現在〉はふつう作品が発表された時点を指すと解されている)。
 語る「私」が作品内の時空から超越しているのであるから、その自在さで作品の言葉を紡ぎ出している点にも注意すべきである。間違いやすいのは、語る「私」はかならずしも〈過去〉を再現しようとはしていないことである。殊に太宰治の小説言語は再現する志向性が弱く、代わりに言語の可能性をこそ追求しているところを味あわなければもったいない。富嶽の百景を提示しようとする構成意識や、笑いを誘う表現も含みながら、言語表現の高度な達成を目差す志向性こそが太宰小説の醍醐味だと言うべきだろう。その点からいっても、事実の再現を志向した〈私小説〉とは、太宰の作品は明確に一線を画するのである。
 というわけであるから、作中の「太宰さん」を作家本人の太宰治に重ねてしまっては、四半世紀前までと同様に〈私小説〉として太宰作品を読む誤りを繰り返すことになる。今では作家・太宰治と切り離して太宰小説を読むのが常識になっているものの、油断するとすぐに〈私小説〉読みの陥穽にはまってしまうので注意を要する。「富嶽百景」を始め太宰治の小説は、作家について何も知らなくても、作品の言葉だけで読める力を具えていることを忘れるべきでない(多くの〈私小説〉の言葉はそうした力が無いので作家の存在が欠かせない)。
それでも太宰について知っている読者は、自分が抱いている太宰のイメージをつい作中の「私」に重ねてしまいがちである。それこそ太宰の手中に捕えられたわけで、知っている分だけ作中の「私」に厚みを加えて読んでくれるので、作者としては言葉で表現している以上に「私」を豊富に彩色して読んでもらえる利が得られているわけである。言い換えれば、太宰の小説には二重の読者が存在することになり、作品外の事実を知っている読者と知らない読者とがいるということになる。太宰を批判的に造型した佐藤春夫の小説を知っていれば、新田という青年がどれほどの決意で「太宰さん」を訪れたかがより深く理解できる次第である。
事実の再現を志向しないでむしろ笑いを目論むという点では、作中の「井伏さん」が放屁した件である。井伏鱒二がこれは事実でないことを強く否定しているのは知られているが、作品の言葉でいかに読者を楽しませるか・感動させるかが大事だという観点からすれば、作中にウソを書き込むことなど何ほどのことでもない。すべてが語る「私」に回収されるのであり、語る「私」が虚構の存在である以上、作家自身には直接の責任はない。そもそも小説自体がウソ(虚構)だというのが太宰治(自身と読者)の小説観だということである。

@ 卒業生に送ったら、生徒には難しすぎるという感想が届いたけれど、もちろん指導書のコラムです。
文中の「味あわせて」は「味わわせて」ではないか、とフニャ君に指摘されましたが、その通りです。
以前自分でも混乱した際に確認したことがあるのに、ボケのせいかフツーに間違えて記してしまいました。