三島由紀夫「近代能楽集」論(前半)

年賀状に公開すると記しながらも忘れていた。
長いので半分ずつ公表することにした。
これも忘れていたが、大学の2年目の夏休みだったか、木邨雅史(以前記した)という優れものと2人で3週間の北海道テント旅行をした時、持参していた唯一の本が「近代能楽集」の文庫本だった。
読み易かったものの、ほとんど理解できていなかったけれど、それも当然の難しい作品だということは今回の論が書けるまで分からなかった、ということかな。
そう言えば、駒場の院の授業で佐伯彰一先生がこの作品のゼミをやっていたのを知り、本郷から1度出席したことがあったけれど、その時も出席者の誰も(佐伯さんも含めて)この作品を理解できていないという印象を受けたものだ。
そう言えるほど本論には自信があるということで、今後の「近代能楽集」論はこの論を目差し乗り越えることを要求されるはずである。
先行論と比べてみればすぐ分かるというもの。

三島由紀夫作品の諸相――「近代能楽集」各篇の読み方
                               関谷一郎

生涯のゴールが見えてきたので、もう三島由紀夫について書くことはなかろうと思っていた。坂口安吾を中心にして最後の本をまとめたいと考えているせいでもあったが、このところ「近代能楽集」の卒論を指導しているうちに、三島文学について自分の理解を記しとどめておきたい気持が強まった。難渋している安吾を一時回避して、しばしの寄り道を試みたい。
その存在の大きさの割には、三島由紀夫文学の全体像をスッキリと捉えきった論考が見当たらないように思うからである。三島の作品論の極め付けである三好行雄の「金閣寺」論を始めとして個別作品論は豊富でも、三島文学全体を論じたものは意外に少ない。もちろん磯田光一の傑出した論が目立ってはいるものの、作家論的文脈という時代の制約を免れていない。あくまでも作家を措いた上で、三島作品のテクスト(本文)の特色を提示しておきたい所存である。《ミシマはやはり小説よりも戯曲だ》と評価している者の一人として、三島テクストの在り方が凝縮して現れている「近代能楽集」で、一様ではないその種々相を一作ずつ読み取ってみたい。
なお「近代能楽集」を論じる者の多くが、三島の自作解説等に言及しつつこれに乗って論を展開しているが、それは三島が嫌った私小説研究の常套手段に堕すものと考える。〈作家〉を主題化することによってテクスト自体の可能性を殺ぐ結果になってしまった論は、私小説と同然で読むに堪えない。当の作家が思いも及ばなかったテクストの面白さ・深さと広さを引き出す(創出する)ことこそが目差されねばならない。

二項対立

「わが友ヒットラー」(昭43・12)の最後の台詞、《政治は中道を行かねばなりません》には当初から異和感を抱かされていた。三島由紀夫ともあろう者が「中道」を強調するとは何ごとか? という疑念を拭いがたかったのである。学部生のころ、割腹自殺(昭和45年)の衝撃の意味を言葉にしようと焦りながら「金閣寺」論を書いた時も、①その結句《生きようと私は思つた》もまた不可解でしかたなかった。その時は差し障りのないように「小説的オチ」として「生き」る方向付けをしたもの、という理解を示した。三島由紀夫ならヒットラー讃歌で幕を閉じてしかるべきであろうし、(モデルの事実に反してでも)主人公を金閣寺の炎の中で死なせるのが妥当であろう、というファン心理の勝手な想定から発する不満に近い。遠い記憶を持ち出せば、蜷川幸雄が三島作品を演出した際にエリック・サティ(たぶん著名な「ジムノペディ」3番だった)を使ったら、コアな三島ファンから《ミシマ演劇なら当然ワーグナーでしょう》という抗議を受けたというように、頑迷なファンの抱くイメージは動かしがたいものである。
 こうした疑念や不満は、三島自身の次の言葉が消化できれば解消されるはずである。
 《セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかつた。》(「小説家の休暇」②昭30・11)
 主人公と作家の同一化は、創造と享受の両面において日本文学の目立った伝統であり、その典型として私小説があるのは言うまでもない。アフォリズムに満ちた三島テクストの中から、飛びぬけて切れ味の好いこのフレーズをエピグラフに選び出した磯田光一は、三島の在り方を《ドン・キホーテサンチョ・パンサとを同時に描かねばならなかったセルヴァンテス》だと説いている。すなわち「愚直な節操をもった殉教者」ドン・キホーテと、「それを嘲笑する傍観者」サンチョ・パンサの双方を自己の内に共存させていた作家の特異性、あるいは日本の伝統に抗う「文学の新しさ」ということであろう。作家の言葉に依りながら、当の作家の本質を射抜いたような磯田の理解は、三島由紀夫研究史でもひときわ輝いている。
 しかしこの大局的な捉え方によって、それぞれの三島作品の様相が見えてくるわけではない。三島文学を二項対立で捉えるのはきわめて有効と言えるが、「殉教者」対「傍観者」の対比だけでそれぞれのテクストが分析できるものでもない。「殉教者・傍観者」の対照は作品によってそれぞれ別の言葉で置き換えられねばならないし、二項対立の用語を強引な手付きでテクストに当てはめても説得力を減ずるだけである。何よりもまずテクスト自体が読めなければ、文学研究は不可能だと知るべきである。

 二項対立というとすぐに「弁証法」を口にするアナクロニズムから脱せられない向きもあるやもしれぬが、三島テクストは対立項が新たな「第三項」に向かって「止揚」されていくという在り方は示さない。対立はどちらか一方が他方に対して優位性を獲得することによって解消されるケースが多く、でなければ最初から二つの項が顕在化されず、「憂国」(昭36・1)のようにひたすら一つの価値観が対立項を持たぬまま形象化されるという場合である。「近代能楽集」のほとんどは対立が解消されるパターンで三島テクストの典型であろうが、「班女」と「葵上」は他の作品群とはベクトルが逆向きだと考えられる。③
 作品名と若年時の疑義を呈したままなので、「わが友ヒットラー」と「金閣寺」(昭31)について現時点の理解を付しておかねばなるまい。前者は緊迫し錯綜した二者択一を強いられたヒットラーが、苦渋の果てに両極を殲滅するという冷酷な「中道」を選択して閉じられる。「中道」など生ぬるいと早合点した未熟者には、「政治」の冷酷さが理解できなかったしだいであった。後者は種々の二項対立を提示しながら、金閣寺という「美」と心中することですべての対立の解消を図ったものと見える。しかし心中が未遂に終ると、〈死〉から〈生〉へと優位性が急に反転するところが、未熟な自分には解りにくかったということであろうか。

「弱法師」

 以下アットランダムな順で「近代能楽集」各篇の分析を進めていくが、戯曲を論じる際に伴う舞台や演出の問題は排除して、一つ一つのテクストを〈読む〉ことに専念する。④また原典との相関性も、三島戯曲について専門的な見地から傾聴すべき知見を提示している堂本正樹氏などの先行論に譲りたい。三島の得意とした原典からの飛翔のあざとさ自体に本論の興味はないからである。
まずは腕試しとして、ほとんど先行する研究論文のない「弱法師」(昭35・7)から。
 堂本氏は『劇人三島由紀夫』(平6)で「この世のをはり」の光景に陶酔して語る俊徳の言と、《(やさしく)いいえ、本当に見ないわ。見たのは夕映えだけ。》と完全に否定する級子のやり取りを次のように論じている。
 《ここからの静かな、閑浄な対決は、男と女という、永遠の対立者の対立として見事に彫琢されてゐる。(改行)男の見る夢。女の立つ現実。……男の魂哲学への憧れと、女の日常生活への絶対の自信。》(「……」は原文のまま、以下同じ)
 卓越した把握でその後の論者も追随しているが、男と女という二項対比は本作で前景化されているとも思われない。男女の関係が「夢」と「現実」の対立として形象化されているのは、「弱法師」以外には「綾の鼓」や「卒塔婆小町」に限られる。「熊野」や「道成寺」の場合は、明らかに男女が逆転しているからである。また堂本氏の理解ではないものの、俊徳の級子との間に男女の葛藤を読む向きもあるが、⑤後述するように無理がある。「弱法師」から読み取れるのは、男女の差異を超えた夢(非現実)と現実との対決であり、夢からの解放と現実への回帰というストーリーである。
 ところで俊徳自身は「夢」という言葉を発していないが、「奇蹟」という言い方なら一度だけしている。  
 《……いいですか。あなた方の目はただかういふものを見るためについてゐる。あなた方の目はいはば義務なんです。僕が見ろと要求したものを見るやうに義務づけられてゐるんです。そのときはじめてあなた方の目は、僕の目の代用をする気高い器官になるわけです。たとへば僕が青空のまん中に大きな金色の象が練り歩いてゐるのを見ようとする。さうしたら即座にあなた方は、それを見なくてはならないんです。(中略)……さういふ奇蹟を、どんな奇蹟でも、あなた方の目は立ちどころに見なくてはならない。見えないのなら潰れてしまふがいい。……ところで、僕の体の中心から四方へ放射してゐる光りが見えますね。》
俊徳の身体から光りが放射したらそれこそ「奇蹟」に違いなかろうが、二組の親たちは(言葉の上だけでも)それを信じるように強いられる。俊徳自身が「見ようとする」のは、くどいほどくり返す「この世のをはり」である。俊徳が戦火を「この世のをはり」だと言いはるのは、《五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いたその最後の炎までも見た》からである。戦火で失明して「光り」を失って以来、俊徳は「現実」の世界を拒絶して自分だけの世界に閉じこもり続けている。失明の悲劇的瞬間を自己劇化して、それを自身の拠り所(アイデンティティ)にして他者を寄せ付けようとしない。俊徳を自分の子供として確保したがる二組の親たちの弱みに付け込み、盲目という特権を利用して親たちを己が言うままに支配してみせる。スネて我がまま放題の俊徳が語る「奇蹟」を信じるフリをすることによって、彼をスポイルしてしまう親たちとは正反対に、「奇蹟」も「この世のをはり」も真っ向から否定してみせるのが、調停委員の桜間級子である。イエスマンになりきった親たちに対しては絶対者でいられる俊徳の言葉を、級子はそのつど否定する。
《俊徳 (略)……ひどく暑いな。まるで炉の中にゐるやうだ。僕のまはりに火が燃えさかつてゐる。火が輪踊りをしてゐる。さうでせう、桜間さん。
 級子(微笑して)いいえ、今は夏だからですよ。それにあなたは、そんなにきちんと紳士らしい服を召してゐらつしやるから。》
 俊徳が特権化された〈過去〉の時間に閉塞しているのに対し、級子は〈現在〉のありのままの世界を提示して〈合理的〉な説明を加えているわけである。その後も級子は俊徳の〈非合理的〉な在り方や言葉に対してきっぱりと「いいえ」を発し続け、否定の人たる位置を守り通す。俊徳が〈夢・奇蹟・過去・非合理〉の世界を破って〈現実・現在・合理〉の世界を承認しつつ回帰して行くのは、否定の人であった級子が肯定の人に転じた時である。
《俊徳 あつちへ行けと言つたらう。けがらはしい!
 級子 いいえ。
 俊徳 けがらはしいと言つたのがきこえないのか。
 級子 でも私はここにゐますよ。
 俊徳 なぜ。
 級子 ……あなたが、少し、好きになつたから。
 俊徳 (――間)君は僕から奪はうとしてゐるんだね。この世のをはりの景色を。
 級子 さうですわ。それが私の役目です。
 俊徳 それがなくては僕が生きて行けない。それを承知で奪はうとするんだね。
 級子 ええ。
 俊徳 死んでもいいんだね、僕が。
 級子 (微笑する)あなたはもう死んでゐたんです。
 俊徳 君はいやな女だ。本当にいやな女だ。
 級子 それでも私はここにゐますよ。私を行かせるには、……さう、教へてあげるわ。何かつまらない、この世のをはりや焔の海とは何の関係もない、ちつぽけな頼み事をして下さればいいんだわ。》
 肯定の人たる級子の面目は、「さうですわ」「ええ」という同意の言葉に端的に表れている。「あなたが、少し、好きになつたから。」という発言は、殊のほか重要と思われる。俊徳のレゾン・デトル(存在する根拠)であった「この世のをはりの景色」を否定したままなら、俊徳を救うことは決してできないはずである。「好きになつた」という真意のこもった言葉で他者から素直に受け止められたからこそ、俊徳は自己を開くことができたわけである。別の言葉を引用すれば、〈過去〉の特権的な時間に閉じて「死」んだままの状態から解き放たれ、〈現実〉の世界に〈生〉きることができるようになったのである。級子は「この世のをはりや焔の海」を忘れて〈日常〉的な「ちつぽけな頼み事」をするように仕向けて、〈非日常〉的世界を脱しつつある俊徳の背中を押す。この〈日常〉的な行為こそ、実は俊徳が恐れていたものである。
 《他人の日常生活をとやかく言ふには当らない。ただ不幸なことに、目あきには自分の日常生活の絵がまざまざと見え、僕には幸せにもそれが見えないだけ。見えないはうがましですね。それは怖ろしい顔をしてゐるに決つてゐるから。……僕は平気だ、庭の草花に水をやつたり、芝刈り機を動かしたりすることも。怖ろしいことを見ずにやれる! だつて、もう終つてしまつた世界に花が咲きだすのは怖ろしいことぢやないか。もう終つてしまつた世界の土に水を灌ぐのは!》
 過去において「終つてしまつた世界」に花が咲くのが「怖ろしい」というのは、世界が〈生〉き返ることで俊徳の存在を根源から動揺させ否定することになるからである。親たちに向かって俊徳が、《ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。》と言うのは、俊徳からすれば「日常生活」に漬かりきっている者こそ、レゾン・デトル(存在理由)を欠いているので「死」んだように見えるからである。この見方を反転させたのが級子であることは、先に指摘したとおりである。
《俊徳 やはらかい手をしてゐるんだね。もつと苦労してゐる人かと思つた。
 級子 さう、私は苦労を知らないわ。あなたと比べたら。
 俊徳 (誇らしき微笑)頼めばいいんだね、召使に言ふやうに。
 級子 お姉さんに言ふやうに、と仰言い。
 俊徳 ふふ、僕、腹が空いちやつた。》
 まるで幼児のように見える俊徳の姿であるが、幼い頃から自己閉塞していたのであるから精神年齢は幼児のままである。それを見透かしたような級子の応対は見事というほかない。これを《俊徳がこの世の法則に合わせているにすぎない》などと俊徳を中心化し過ぎる三島論者は、自らが単純なドン・キホーテであることをさらしている。⑥セルヴァンテスはドン・キホーテではなかった、という三島自身の言葉を反芻すべきであろう。「お姉さん」という言い方で明快なように、二人に男女としての意識を読むにも当らない。俊徳を解きほぐすという「役目」を意識しつつ余裕をもって接している級子が、俊徳に「ほのかな好意さえ抱く」などと読んでいる姿は、風車に激突するドン・キホーテさながらである。
〈非日常〉の側が完全に〈日常〉によって敗れた形ではあるが、勝者と敗者の劇的な対照が前景化されているわけではない。俊徳が〈非日常〉化することで己を特権化していた夕陽の代りに、級子が「日常生活」の一コマのように電灯を点ける。そこには日常の中に相対化された、かつての絶対者・俊徳の小さく自足した姿が残される。盲目でありながらも一方的に見る(支配する)立場であった俊徳が、「一人ぽつねんと」している姿を見られる(相対化される)だけである。しかし孤独ではない。幼い心のままに、自分が「誰からも愛される」と信じて足りているからである。

 「綾の鼓」

 次もあまり先行研究の見当たらない「綾の鼓」(昭26・1)。
 そもそもテクストそのものが露骨に二項対立を表示しているので、基本的構造は理解しやすい。下手は「善意の部屋。真実の部屋。」であり、上手は「悪意の部屋。虚偽の部屋。」とこの上なく明確に対照されている。それぞれの部屋の登場人物たちはこの区分けから外れる言動をなすことはないが、ヒロインの華子だけは微妙な立ち位置にいる。「悪意」の人々が「善意」の岩吉を図らずも死に追いやるものの、華子がそれに積極的に加担するそぶりを示しているわけではない。その関わり方が微妙なのである。華子は第一場(昼間の場面)において終始無言を通しているので、その心中が測りがたい。それでも戸山の台詞「でも人を苦しめるのは大好きですよ、奥さんは。」に注目すれば、本人の意図はともあれ結果的に「人を苦しめる」ことが少なくないようである。
 鳴らない鼓で岩吉をからかう際にも「(華子、微笑してうなづく)」というト書きのとおりで、反対せずに「窓際へみちびかれる」まま姿を岩吉にさらしている。からかわれていることに気付いた岩吉を見て、「(――上手の窓の人たち一せいに笑ふ)」とあるが、ここに華子が含まれているのか否かがもっとも微妙である。「あんた方は笑ひながら死ぬだらふ」という岩吉の恨み言から察せられるのは、華子が上手の他の人たちと異なった態度や表情を示したわけではないということである。しかし岩吉の投身自殺を知った第一場末尾では、
 《(――一同声をあげて席を立ち右往左往する。あるいは窓をあけ、あるいは階下へ走り去る。華子一人中央に凝然と立つてゐる)》
 と、他の「悪意」の人々とは明らかに差異化されている。
 第二場(昼間の場面)における岩吉の亡霊とのやり取りで、やっと華子自身の弁明が語られる。
《亡霊 あんたは幽霊までもたぶらかさうといふおつもりか。
 華子 どうしてあたくしにそんな力があるでせう。あたくしの力は可哀想なお年寄を一人殺しただけです。それもあたくしがほんのわずかうなづいたから起つたことですの。自分で手を下したわけぢゃありません。》
 岩吉を殺したことになったのは、あくまでも結果論だというのが華子の言い分である。華子の言わんとするところは、右の台詞の前後から読み取ることができる。
《華子 あなたに招かれてやつて来ました。でもあなたはまだあたくしを御存じない。あたくしがどうしてここへやつて来られたかご存じない。……
亡霊 儂が引寄せたからだ。
華子 いいえ、人の力を借りなくては、人のとほるドアはあきません。》
《亡霊 ああ、星がいつぱいだ。月はみえない。月は泥だらけになつて地面へ落ちてしまつた。儂は月のあとを追つて身を投げたんだ。いはば儂は月と心中したんだ。
 華子(街路を見下ろして)どこかに月の亡骸がみえて? そんなものは見えはしないわ。真夜中の流しの自動車が走つてゐるだけだわ。》
 華子を月に生えると言われる桂の木に譬えるほどロマンチックに理想化した岩吉は、死後もその夢想から覚めていない。いかに美化されようが、しょせんは神ならぬ人間でしかない華子は、鍵と人力によってドアを通るほかない。あまりに華子を神格化(絶対化)してしまった岩吉は、華子が一人の人間にすぎないことが見えなくなっている。「あなたはまだあたくしを御存じない」という台詞は、死んでも夢想の世界に閉じこもったままの岩吉の思い違いを突いているのである。自分は月と心中したのだと言うほどに呆けている岩吉の亡霊に対し、「そんなもの見えはしない」と断言しつつ車の走る〈現実〉の世界を見せようとする。
《亡霊 だが儂はもう幻ぢやない。生きてゐるあひだ、儂は幻だつた。今では儂の夢みたものだけが残つてゐる。儂を失望させることはもう誰にもできない。
 華子 でもお見うけしたところ、あなたはまだ恋の化身とは云へませんわ。(略)今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
 亡霊 あなたは幽霊に証拠を求める気か。(ポケットをはたきながら)ごらん、幽霊は一文なしだ。儂は証拠といふ財産をなくしてしまつた。
 華子 あたくしは証拠だらけだわ。女の中には恋の証拠がいつぱいあるのよ、その証拠を出したら最後、恋でなくなるやうな証拠がいつぱい。でも女が証拠をもつてゐるおかげで、男の人は手ぶらで恋をすることができるのよ。》
 堂本論の言う、男のみる「夢」と女が生きている〈現実〉とが、根本から食い違って対照されている場面である。華子の言わんとするのは、「今の世の中」では岩吉の考える「本当の恋」など成立しえないということ、それは死によってさえも証明しえないということである。華子から見れば、岩吉は「夢」の中に閉じこもることで「失望」することから免れ、自分を守っているだけである。「夢」の世界に自己閉塞している岩吉は、「世の中」(現実)を見ようとしていない。したがって岩吉は「本当の」(現実の)華子から目をそむけ、彼女が「真心のない男たち」に鍛えられ、刺青をしたスリに仕立て上げられていたという過去を認めようとしない。「本当の」華子を受け容れてしまったら、彼女を美化することで担保されていた「夢」が崩壊してしまうからである。
 《わかつた、あなたは儂の執念をおそれてゐるんだ。儂に愛想尽かしをさせるやうに仕向ける気になつたにちがひない。》と見当外れな受け止め方で納得しようとした岩吉は、華子から刺青について打明けられると幼い恨み言を浴びせる。
《亡霊 売女め、あんたは二度までも儂をなぶりものにした。一度では足りずに、……
 華子 一度では足りずに、さうだわ、……一度では足りないんだわ。あたくしたちの恋が成就するにも、わたくしたちの恋が滅びるにも。》
 微妙で難解な台詞である。「一度で足りない」とすれば何度なのか、と問う発想自体を華子は否定しているようである。なぶられるなら一度でいいものをと恨む岩吉は、「一度」を絶対化することによって、くり返すという考え方を潔癖に拒否しているものと考えられる。男たちから望んでもいない「証拠」をくり返し強いられ・負わされてきた華子からすれば、たった「一度」の屈辱に打ちのめされて己だけの世界に閉じようとする岩吉と自分との間には、「あたくしたちの恋」など始まりもしなければ終りもしないということであろう。とすれば、以下のやり取りも同様のすれ違いを示していると読める。
《華子 鼓が鳴らなかつたのは、鼓のせゐぢやありません。
 亡霊 儂は今でもあなたを慕つてゐる。 
 華子 今でも! あなたが亡くなつたのはたつた一週間前ですわ。》
 華子に「祟らう」とするように、自分の思い込みの中に閉塞して責任は他に転嫁する岩吉の狭量さこそが、華子に受け容れがたいのである。「たつたの一週間」を壮大な時間の体験のように押し付けがましく語る、岩吉の自己中心的な思い違いが許せないのである。岩吉の考え方には他者の存在が欠落しているから、「百」という数を絶対化してそれ以上打とうとはしない。「百」という数字の完結性に合わせて諦め、勝手に自己閉塞してしまう。華子の最後の台詞《あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさへすれば。》は、硬直化した岩吉の在り方を根底から批判しているのである。「百一」とは呪縛が解かれた、自由な相対世界の表象である。

 舞台を上手・下手の二つに区切るのは、歌舞伎「妹背山女庭訓」の一場の再現だというのは、まったく堂本氏の指摘のとおりながら、氏のテクストに臨む姿勢には賛同しかねる点もある。テクストに《矛盾、もしくは書き足りなさがある》としたり、テクスト外の三島の自作言及を引用しながら《三島にとっても矛盾を抱え込んだ幕切れ》と規定して終ると、読解そのものの放棄になりかねない。もちろん右に示した拙考が唯一の読みであるはずもないながら、テクストの挑発と誘いには可能なかぎり乗り、読みの楽しさを味わうべきであろう。
 テクストを読むことに徹すれば、軽視されがちな第一場にも押えておくべき場面が布置されているのに気付くはずである。華子を「でも大した美人ぢゃないわ。」と見る加代子に対し、恋とは「おのれの醜い鏡で相手を照らすもんだ。」と応じる岩吉とのやり取りに、すでに〈現実〉と「夢」との対立が提示されているのは見やすい。注目すべきは「悪意」と「虚偽」の部屋を代表しているような、金子の台詞である。
 《このぢいさんは自分一人苦しんでゐると思つてる。その己惚れが憎たらしい。われわれだつて同様に苦しいんです。ただそれを口外するかしないかの違ひですよ。》
 《大体において、われわれはこのぢいさんみたいな存在を唾棄すべきものだと思ふんです。われわれはさういふ存在を許しておけないんです、本物の感情といふ奴を信じてゐる存在をね。》
 《すべて問題は相対的なんです。恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。しかるに何ぞや、あのぢいさんは不純だよ、冒瀆だよ、われわれを馬鹿にしてゐる。いい気になつてます。つけ上がつてますよ。》
 説明するまでもあるまいが、金子の考え方は第二場の華子の思いに呼応している、と読むことができる。己の感情を「本物」だと絶対化しつつ「自分一人苦しんでゐる」と思っている岩吉の自己完結が憎たらしいと思うのは、強度は別にしても華子に通じている。《すべて問題は相対的なんです。》という断言は、絶対化(硬直化)から逸脱することができない岩吉の在り方を、根本から批判しているのを見逃すべきではない。