松本和也の名著

学会誌『昭和文学研究』最新号(第72集)に、以前おススメした松本和也『昭和10年代の文学場を考える』(立教大学出版会)の書評を書いたので公開します(もう会員には配布されたと思うので)。

 紛れも無く研究誌に残る画期的な業績だと感じた。昭和文学史といえば平野謙を読んで育った私(達)から見ると、平野謙はもはや過去の人で今どきの研究者には読まれていない、せいぜい「記憶に残る」程度の人になってしまったのは淋しいかぎり。ひるがえって松本氏の本書は間違いなく「記録に残る」傑作だと思う。
 昭和文学研究を志望しながらも全くの無知だった学生にとって、平野謙の著書は知識の宝庫であり初歩から吸収させてもらったものだ。しかし外在的な見地から作家や作品を論じる批評・研究にはウサン臭さしか覚えなかった身にとっては、広く認められていた平野の「三派鼎立」等の諸説は好都合なたたき台でしかなかった。卒論に小林秀雄を選んでいたので、平野が昭和十年前後における反ファシズムの人民戦線戦術が文壇でも模索され、その流れの中で小林の変貌を位置付けているのを見るに及び、「己の夢」を手放しで語る平野を批判しながら拙稿を際立たせることができた。「三派鼎立」論に典型されるように、何でも文壇政治の力学で整序化しようとする手付きは、初学の身にも批判しやすいものだった。今回松本氏の著書によって平野(を始めとする先学)の盲点や視野の狭さに気付かされて唖然とした。同時代人としての平野が肉眼で見聞したものを実感的に語った文学史からは、平野の体温や哀楽は伝わってくるものの、距離が取れない同時代人としての限界が露わである。そう強く思わせてくれるほど、松本氏の達成には俯瞰的な見地から客観性を目差した考察が積み重ねられていて説得力がある。
太宰治の作品を精緻に〈読む〉能力は本書でも発揮されているが、松本氏にはテクスト論の時代の子として当然作家を〈読む〉志向性は薄いものの、作家や作品の背景を〈読む〉傑出した能力で太宰研究において特色付けられてはいた。本書はその延長で太宰に限らぬ昭和一〇年代の文学作品の背景(本書で言う「文学場」)を〈読む〉ことを試み、見事な成果をもたらした。作品や作家を〈読む〉ことに比して「文学場」(文学史)を〈読む〉にははるかに多くの手間がかかるだけでなく、広い視野と鋭い洞察力を要するはずである。平野のような評論家なら「己の夢」を語って面白ければ済むかもしれぬものの、研究の第一義は面白さではなく正確さである。作品・作家を論じるのと同様、推論と論証(演繹と帰納)の能力を二つながら具えていなければ、文学史を叙述するなどしょせん無理な話である。時にその推論が勇み足に見えることも無いわけではないながら、当方の不勉強のせいかもしれないので、時間をかけて検討する楽しみも与えてくれる。
本書は単に従来の文学史を緻密に叙述したに止まらず、文学史を〈読み換え〉てしまったと思えて驚いたが、平野謙の著書の目次と見比べるだけでもその衝撃が伝わるはずだ。ネット社会のお蔭で便利になったとはいえ、同時代評をチェックするにはとてつもない労力を要するであろう。しかし厖大な量であろうが資料を漁るには時間と根気があれば済むことであり、その結果を冗漫にまとめるだけなら誰にでもできることだ。ところが先学が素通りした資料の問題点を問い直す能力が無ければ、文学史を〈読み換え〉ることなど不可能だ。作品や作家を〈読み換え〉るなら自信があるものの、きょう日文学史を〈読み換え〉る意力と能力を具えた研究者はほとんど見当たらないとはいえ、その意力も持ちえなかったのは恥ずかしいかぎり。昭和文学の一時期とはいえ、松本氏は若くしてそれを目の前でやって見せてくれたわけである。これを推奨しない手はない、該当する賞があれば宜しく授賞すべきであり、授賞を逃したら選考委員の恥である。
私が読み取った松本論の軸はリアリズムとしての「報告文学」(「ルポルタージュ」)であり、これこそ昭和文学が模索したリアリズムの諸相と有機的に結び付きつつ私小説歴史小説等の論議にも通底している、という文学史的把握の斬新さに強く打たれた。平野謙その他の書から「報告文学」を学んだ覚えがないので「盲点や視野の狭さ」と記したしだい。ルポルタージュ文学といえば戦後に安部公房花田清輝が主張していたという記憶があるものの全く興味が湧かなかったし、その文学的達成はともかくも、本著を読むまでルポルタージュが提起する問題の重大さに思い及ばなかったのは口惜しい。
本書で引用・紹介されている先行研究からも教えられること多大なものがあるが、とりわけ第16章で言及されている嶋田直哉氏の「濹東奇譚」論は「報告文学」の観点を補完する衝撃的なものだった。氏の「濹東奇譚」論がその後どのよう評価されたのかは不勉強で定かではないが、氏が言及している金子明雄氏も司会の一人だった「濹東奇譚」のシンポジウムでも「報告文学」という切り口は全く話題にならなかったのだから、嶋田氏の着眼の鋭さこそが賞讃されねばならないであろう。ひるがえって「濹東奇譚」にしろ荷風にしろ、また平野謙を始めとする文学史にしろ、嶋田氏が批判している従来の研究が〈「文学」主義的な欲望〉から免れぬまま惰眠を貪っていたということになるのであるから、重篤な「文学主義者」の一人として痛恨の極みと頭を下げるほかない。嶋田氏が引用するように「濹東奇譚」の同時代評の中には「報告文学」の側面を明確に指摘しているものがあったわけであるから、荷風の好んだ江戸の人情本を遡れば花街案内という「報告」的要素があったことを想起するまでもなく(この発想も「文学主義」?)、同時代評が提起していた問題点を無視してきた先人たちのウカツさをそのまま引き継いできた我々の不明を恥じるばかりである。
「報告文学」という観点から当時流行り始めた「行動主義文学」の言説を再評価しつつ、その後の「報告文学」の種々相へと架橋していく手際も二人に共通しているものである。またリアリズム論議が一〇年代後半には歴史小説言説と私小説言説との「共犯関係」(第20章)に展開していく、という松本氏の独創的な把握にも共感できる。私見を挟めばリアリズム(写実)の「実」が外的現実や事実を示す一方で作家の内面の真実を含意しつつ、二つの「実」をめぐって一〇年代のリアリズムの議論が展開されていくと考えるからである。数年先行する社会主義リアリズム論争が日本の「文学場」にとって不毛に終わった一因は、議論が外側の「実」に一元化されたためであろうし、一〇年代の小説が次々と目新しい素材に奔ることで内的真実が希薄になり、志賀直哉を範型とする小林秀雄の痛烈な批判を招いたわけである。
 さて松本氏は「序」で本書の表題の「文学場」はブルデューフーコーに由来していると断りつつ、《特定の作家―作品―トピックを対象として想定する文学史(研究)に対し、それらを取り囲む諸条件ごと俎上に乗せたい》という意を込めたと註している。それだけのことならわざわざブルデュー等を持ち出す必要も無かろうし、モチーフ自体にも新味は感じられないものの、結果がすべてで圧倒されるばかりである。「新しい方法論が照らす歴史の力学」と本書の帯には記されているが、流行中の研究法の尻馬に乗って作品の歴史的・社会的背景をうんぬんしたがる論には事欠かないものの、掛け声ばかりで内実が伴わないものばかりなのが昔からの相場であろう。歴史書や理論書を漁ったところで本書と同レベルのものが書けるわけのものではないのは、資料漁りと同じく問われているのは推論し論証する才覚だからである。 
太宰治研究で注目を浴びたという共通点からも、松本氏は安藤宏以来私が注目してきた「畏るべき後生」である。松本氏自身も言うように元より「死角のないアプローチなどない」(「序」)のだが、安藤氏に対しても共通して抱く不満はジャンルが小説(とそれに関わる評論)に限られていることである。本書にも名が挙げられながらも論及されることのない高見順「昭和文学盛衰史」の目次を参照するだけで一目瞭然、昔から愛読してきた高見本には詩歌も演劇の動向も語られている。幸い松本氏は演劇にも詳しいはずであるのに、演劇方面の動きが全く語られていないのは残念だった。両氏ともに詩歌がその視野から欠落しているのは致命的で、詩歌を外して文学史や表現理論を展開されても根本的な欠落感を拭えないのは私だけではあるまい。「文学場」の「文学」を小説に限って済ませるはずもないのだが、それでも何とかなってしまうのは我々が共有する「死角」があるからであろう。日本独特の現象のようだが、読書と研究の双方において小説が極端に偏重される傾向はいつから定着してしまったのか? 少なくとも私(達)の師の世代はジャンルを超えた問題意識を保持していたものだ。「文学場」を文化や歴史など外に向かって開くべきだとは認めつつも、内にも外にも欠落感を拭えない「文学主義者」としては惰眠を貪ってばかりではいられない。本書に背中からどやされた思いで目が覚めた。
大学院の教科書選びの習慣が残っているせいか定価が気になるものの、「高いと思ったらその分吸収すれば安くなる」と学生に言っていた言葉を繰り返しておきたい。その昔拙著小林秀雄論の前書きで紙クズ同然の出版物に警告を発した者として、昨今いくら読んでも元が取れないにも拘らず法外な価格の紙クズの氾濫に苦々しい思いを禁じえない中で、本書に出会った喜びは切に大きい。