学芸大学国語国文学学会  谷崎潤一郎論  宮川竜太朗

毎年欠かさず参加することにしているのだけれど、今年はリューマンが発表するのでいつもより気合いが入った。
予めレジュメを送ってもらっていたので、その場ではなかなか理解する能力が無い身なので助かった。
ボクだけの観点からの指導では視野が狭くなるので、ヒッキー先生とイトー先生にコメント・指導をお願いしてあったのだけれど、実際にいただけたのは有り難いことだった。
本人も自覚していたとおり、修論の頃に比べると読み手(聞き手)に伝わりやすいようになったのは進歩だろう。
ボクが前田久徳センセイと大学院同期の昔から谷崎は好きな作家ではなかった上に、今回の発表対象だった(明治から)大正期は特に嫌いな時期だったけれど、発表はとても面白かった。
修論では「生きられる」時間・空間(ミンコフスキー)が前面に出過ぎてジャマだったけれど、今回はそれが後景に退いてオリジナルな身体論的な把握ができている手応えを感じた。
卒論も谷崎論だったけれど、その頃から既成の谷崎論ターム(マゾヒズムとか母性志向等々)を拒絶して論じるように要望していたけれど、その延長線上で今回ステージ・アップが達成されたものと思う。
絶対化から相対化へ・自己完結から自己開放へ、という読み方はイチロー小林秀雄論を思わせるところもあり、イチローの小林論に馴染んでいないはずのリューマンなので不思議な暗合を感じたものだ。
講談ネタの話を聞いて、志賀直哉の「赤西蠣多」はもちろん「暗夜行路」の謙作が深夜お栄の寝ている部屋にある講談本を取りに行きにくい心理を書いた箇所が思い浮かび、講談の裾野の広さ(という研究課題)を感じた。
志賀の「濁った頭」もネタ的には講談に近いものだった気がするが、まだ確かめていない。
「病蓐の幻想」にも志賀の「剃刀」とのシンクロを感じたので、時代の影響の強さ・広さが伝わって来た。
「母を恋ふる記」の冒頭を読む度に漱石「坑夫」の冒頭を想起するのだけれど、谷崎の「聴覚」という発表内容と漱石の作品との異同が気になった。
ともあれ論文の形に仕上げて、谷崎の専門家の評価を共に待ちたい。