坂口安吾研究会  浜崎洋介を読むべし  『太宰治スタディーズ』6号

昨日は安吾研究会に参加してきた。
予想に反してとても充実した発表と議論が拝聴できたので、欠席した人は数ヶ月分の遅れをとった結果となりカワイソーという印象。
最初の発表は留学生と日本人(共にドイツ文学研究専攻)のもので、片やゆっくりした日本語なのは当然としても、日本人院生があまりに早口(スゴイ《芸》!)なので老化した耳と脳では聞き取れない。
ポーがホフマンに強い影響を与えたことから、ポーやホフマンを読んでいた安吾にもポーの影響があったであろうという前提で、ポーの「構成の哲学」という論を援用しながら安吾の2作品とフケーの作品との共通性を指摘した。
浅子逸男さんが的確に指摘・指導したように、似ているからといって単純に括っていいものではないのは研究の初歩で常識ながら、2人がドイツ文学専攻なせいもあってか初歩的なミスが目立った。
ドイツ・ロマン派のフケー作品と安吾の2つの「創作説話」との共通点ばかりを強調してしまうと、安吾が日本浪漫派に重なってしまう違和感を抱いたので質問したものの、明快な応えは得られなかった。
それでも先行研究には見当たらない、安吾とドイツ文学との関連を指摘した点では刺激的ではあった。
休憩時間に浅子さんに種々教えてもらったけれど(特にヘップバーンが「オンディーヌ」を演じた等は初耳だった)、この御仁はボクと同年齢(たぶん)でいながら年上の渡辺正彦氏や栗原敦氏と同じく何でも知っている感じで、このお三方はいかにもインテリゲンチャというイメージだ。
共通点は3人とも東京教育大学出身者だけど、筑波大学と一緒にされたくないと思っている人達だろうと察している。

2番目の山崎義光氏の発表は、予め送られた要旨を読む限りでは「続堕落論」と他の作品との共通性をなぞって終るものだろうと期待しないでいたら、トンデモない緻密な内容だった。
感心しながら聴いていたのだけれど、午後は必ず昼寝をする習慣が現れて後半の3分の2くらいは意識を失っていたので残念至極。
休憩の後の浜崎洋介氏の講演は目覚めた意識で拝聴したつもりだったけれど、これも途中少し意識が途絶えていた時間があった模様で「カラクリ」や「ふるさと」の含意するところが明確でなかった。
全く未知の人で表題に「ふるさと」や「ファルス」が入っているので、あまり新味の無い内容だとタカを括っていたら、これもトンデモなく充実した内容だった。
第一級の文芸評論家だと思っている井口時雄さんのお弟子さんという自己紹介だったので、その点の興味も湧いてきた。
東京工業大学大学院修了という理工系のイメージのせいか、あるいは井口さんの薫陶なのか、とっても明晰な論理を尽くして話す人なので驚きだった。
福田恒存の専門家だそうだが、例えば有名な「一匹と九十九匹」の意味するところを実に分かり易く説いていて腑に落ちた。
居並ぶ安吾研究のツワモノ達が繰り出す矢継ぎ早の興味深い質問に対して、当意即妙に応えているのを聴いているとワクワクするほど面白く刺激された。
老化した脳の誤解かもしれないが、「言葉」は対象や自己との《距離》を前提とする、この《距離》が大事だという指摘は我が井伏鱒二論に通じるので心強かった。
志賀直哉などの私小説にはこの《距離》が欠けているという言い方からすれば、拙論とそれほど隔たったことを言っているわけでもないと思った。
さらに山根龍一氏の質問に応じて、安吾(テクスト)の《分裂》や《揺れ》を読み取っているのは我が意を得たかんじで嬉しかった。
講演はそのままでもいいから、ぜひ活字に起こして読めるようにしてもらいたい。
浅子氏も驚いていたが、恒存が影響されたチェホフの「桜の園」と「桜の森の満開の下」のラストシーンが似ているという指摘には虚をつかれた、ナルホド!
浜崎洋介は面白い、読むべし!

単著:『福田恒存 思想の〈かたち〉−−イロニー・演戯・言葉』(新曜社
共著:『アフター・モダニティ――近代日本の思想と批評』(北樹出版

@ メンバーが重なる人が少なくないようなので、この場を借りて情報と連絡を。
  実力者たちが出している『太宰治スタディーズ』は、今年の6号からはネットで読めるようになったそうです。
  5号まで送ってもらっていたけれど6号が届かないので「?」と思っていたら、懇親会を避けて早目に退出した(先般のブログに記したとおり外で飲むのが怖い)ボクを追ってきた小澤純氏がその旨教えてくれた。
  パソコンで読むのが苦手なので、プリントしたものをお手かずながら小澤氏が送ってくれるというのを待っているところ。