安吾を読むゾ!  「黒谷村」  荒川法勝  守安敏久  柳沢孝子  

このところマジメに安吾を読み始めている。
安吾についての論を中心にもう一冊出すのが最後だと決めながらも、その安吾に集中できないままでいた。
文字通りの初心者の状態が克服できないまま、ほんの一部の作品しか読んでいないので、残された厖大な未読作品(全集は階段に積んだまま)を前に手が付けられないでいた。
それでも難関の1つだった「吹雪物語」は去年通読できたのは収穫だったので、その勢いを想起しつつ再び読み始めた次第。
驚いたのは「FARCEに就て」を読み始めたら、数回目に読んだつもりが通読した形跡がなかったこと。
よく引用される前半までは読んだ記憶がハッキリしていたけれど、途中からは初読の印象だったのでボケたかな、と自嘲が洩れた。
小説ではごく初期の「黒谷村」を久々に読んだけれど(宇都宮大学在職中以来)、想定どおり前作の「風博士」と同じ系統の作品だと確認できた。
ついでに森安理文他編『坂口安吾研究』収録の荒川法勝という人の「黒谷村」論も読んでみた。
このグループ(芸術至上主義文学研究会というのかな?)の研究水準には全体として期待していなかったけれど、この荒川氏の論はとても共感し評価することができた。
(どういう方なのかご存じの人はご教示いただきたい。)
論の最初に《これまで、「風博士」と「黒谷村」とは、安吾の小説の二つの系列とみなされてきた。》とあったので呆れてしまった。
荒川氏にではなく、この二作品を別の系列とみなしてきたという人達に呆れたのだ。
この論文集は昭和48年刊行のものなので、現在では荒川氏の把握の延長上で研究が展開されていることを望んでいるけれど、どうなのかな?
詳しいことは面倒なので省くが、荒川氏の見解は他の切り口においてもボクの安吾理解にかなり重なっているので、安心しつつもボクが言うことが残されているのか不安にもなる、そのくらい優れた論だ。

安吾牧野信一との異同を検討したいので、森安ならぬ守安敏久クン(大学の後輩なので)の『バロックの日本』(2003年、図書刊行会)収録の牧野論も読み始めた(昔、雑誌掲載の頃に読んでいるが)。
牧野論と言えば柳沢孝子さんだけれど(小沢書店から出されたものなので古書店を探すほかない)、これも手許に置いているのは言うまでもない。
矢島道弘他編『坂口安吾研究Ⅲ』(昭和62年、三弥井選書)収録の和田博文氏の両者の比較論も読んだけれど、資質的には異なっているという見解も想定内でホッとしたところ。
2人が共通しているという理解もあるようだけれど、表面的過ぎると思いながらも、ここでも自分が言うべき余地が残っていることを期待するばかり。
さて肝心の牧野作品自体はまだ再読していないのだけれど、実は日本近代文学の中でも嫌いな作家の1人なのだ。
いつ読んでも、何度読んでもツマラナイので読むのがツライ。
そもそも小林秀雄研究をしていた頃、なぜ小林が牧野を評価したのか(「アシルと亀の子Ⅲ」)サッパリ分からなかったものだ。
というので、これも改めて読み返してみたら、それほど説得力のある評価軸は提出されていなかったので安心(?)できた。
先は長いけれど、この調子でボチボチ読み続けていくつもり。
サボっていないことを証明するために、時々ここに報告するようにしたい。