学芸大の教員  片山さつき

昨日はヒグラシゼミで学大に行ったのだけれど、土日のおかげで教員と顔を合わすことがないのは救われる。
クレイ爺のセクハラ・パワハラを追及したのを契機に、当時の村松泰子執行部と対決したことを通して、多くの教員に対して強い不信感を抱いたのは吾ながら不幸なことではあった。
平日に学大に行くと顔見知りの教員に会うこともあり、こちら以上に気まずい表情をされることが多く、カワイソーに感じながらも「オレは許しちゃいないゼ!」という気持にもなる。
ズウズウしいヤツは語りかけてきたり・挨拶してくるのもいるけれど、当時の執行部を始めとして敵対したヤカラは無視して済ますことにしている。
でも学大以外の場で学大の教員と顔を合わせたりすると、一瞬どう対応したらイイのか戸惑うことがある。
こちらが許容している相手なのか、許せないヤカラなのか、すぐには判断できなくて内心ドギマギすることがある。
2週間前だったか、法政大学に向かう電車で寝ていて乗り換え駅の四谷で目覚めて降りようとしたら、「セキヤさん」と呼びかけられてビックリした。
まさかそんな時空で呼びかけられるとは思っていないので、心の準備がまったくできていなかったから驚いた次第、目覚めた直後だったし。
その時は名前が浮かばなかったけど、ドイツ語の赤司英一郎さんだった。
学大の教員なのは判ったけれど、果たして応じてイイのか無視すべきなのか動揺したまま「こんな所で会うとは!」と応えたのは覚えている。
後で名簿を見て名前が分かってから、闘争後はあまり心を許してなかった人だということも思い出した。
とはいえ同じドイツ語の中島裕昭のように、明確にボクに対立してきたヤカラほど悪人ではない。
中島は当時教育研究行議会(二十数名)に属していて、全員で処分対象になった教員(ボク)の側の主張を聞き届ける立場にあったのに、執行部に対する協力敵姿勢を示すためか(?)積極的に欠席した模様。
同じ言語・文学を専攻する身でありながら、大学では殊の外重要視されるべき《表現(の自由)》のためにも出席して議論すべきだったのに(ボクとは反対意見であっても、もう1人の文学研究者と共に)欠席したために、出席者は《表現》の問題とは門外漢ばかりの「ボーっと生きている」連中ばかりとなってしまい、ボクの《表現の自由》の主張論を聴かずに退屈そうに時間の過ぎるのを待っていただけであった。
(ちなみになぜ《表現の自由》が問題だったかというと、クレイ爺のセクハラ等を放置しようとした執行部を動かすために、ボクが熾烈な執行部批判をくり返したのを根に持ったヤカラが、ボクの言行による批判活動を封じたり仕返しをしようとする魂胆から、ボクに対する処分を言い出したからだ。)
中島裕昭はある学内の劇団の顧問をしていて、そこに昭和ゼミのメンバーも属していたので理解し合える仲だと思っていたので、裏切られた感は拭えない。
その後は副学長にまでなったのだから、執行部気質(他人を陥れても権力を欲しがる)は持ち前のものだったのだネ。
最近の自民党総裁選で石破支持から安倍晋三支持に乗り換え、「ご褒美」に大臣の席にありついた片山さつきと同種の存在だヨ。
もちろん内面の汚さが顔に露わな片山とは異なり、中島は人も殺さない顔をしながら平然と他人を裏切るタイプということだネ。

話は中島ではなく赤司さんだった。
実は赤司さんにはこちらが迷惑をかけたことがあったのは忘れていない。
学大在職中にボクは2つのチョンボをやったけれど、1つは学部の入試にからむので詳しいことは言えない(全部ブチまけたいのだけどネ)。
朝から晩まで試験監督をやらされたものだから、1日に1度は必ず昼寝しないともたないボクは、夕方の最後の監督の頃には意識モーロ―としていたせいか、スゴすぎるチョンボをしたのが1つ。
2つめは博士課程の入試の際に言語文化系の責任者を任されたものの、当日の朝に手配したバイトの院生が現れなかったので(信頼に応えなかった数少ない他大学出身の院生)、代りを探すのに本務に集中できなかったのがケチの付き始め。
この日も昼寝ができぬまま夕方となり、暗くなって副委員長の赤司さんと本部に提出しに行ったのだけれど、後でその書類に不備があったのが発覚して大騒ぎとなってしまった。
提出する前に副の立場の赤司さんにチェックしてもらえば良かったものの、ボクを信頼して見せろ言わなかったのをいいことに、そのまま提出してしまった次第。
赤司さんにはお咎めはなかったものの、ボクは事後処理にオオワラワだった。
これからは赤司さんに挨拶されたら素直に返そうと思っているヨ。