【ヒグラシゼミ】高田知波の「五重の塔」論  その他の《読み》の可能性

実に面白かったヨ、聴けなかった人がカワイソー。

ストーリーを知っていたので読んだつもりだったけど、初めてだったネ。実際に読んでみると最初から文章のリズムに乗せられてグイグイ惹かれて行った。長い1段落がほぼ1文で一気に語られているのには驚くネ。一葉や谷崎にも共通する要素だけど、興味のある人は比べてごらん。

気持良く読んでいると「其三十二」に至って突然「飛天夜叉王」の独白が始まるので、何のこっちゃ?! だヨ。その読みにくさもタマラナイ、仏教用語も連発されるのでそもそもの意味が取りにくい。結末の「其三十五」も十兵衛と源太の相互葛藤が解消されないまま、「上人」が無理やり締めてしまうのでとても終わった感じがしない。

こんなテクストを露伴研究者がどう読みまとめているのか気になっていたところ、多くは大団円と読んでいる論ばかりだとのことで驚き、ハッピーエンドになっていないことをハッキリ断じてくれた高田さんの読み方にやっと安心できた。講演の聴き手も多くは大団円として受け止めていたようで、やはり露伴は今どきの人たちには難しいと見える。というより、高田さんの説く「読みに作用するバイアス」(「五重の塔」の場合なら和解で終るという思い込み等)に囚われていたせいかな。

高田さんがどう読み解いたかは、いずれ論文・著書になるべきものなのでここでは記すことができない。代りにボクの思い付いた読み方(ポシビリティとしてあり得る読み方)を示しておきたい。十兵衛と源太の対立を2人の相容れない個人(や国家・民族)の対立として(政治的に?)読み換えたり、(先行研究でも同様の発想があるらしいけど)恋愛という観点で読み換えたりする可能性だ。

過去に大井田義彰さんの授業の時には、マンジュが「前近代(=源太)と近代(=十兵衛)の闘い」と捉えたそうだけれど(ナオさんの記憶)、その読み方なら職人(アルチザン)=源太 VS 芸術家(アーティスト)=十兵衛という対比とも言えるのではないだろうか。

恋愛という読み方をするなら、上人と十兵衛との関係がそれに近いかも。上人に惚れられたと思い込んだ十兵衛は、嵐に遭っても塔は安全だという思いも上人と共有していると思っていたにもかかわらず、塔を見に来いという上人の不安(寺の事務僧のウソだけど)を知って裏切られたと勘違いして、鑿(のみ)を胸に抱いて塔から飛び降りる決心をするところなど、拗ねた男(女)が腹いせ(見せ付け)にする愚行にも見えてくるというものだ。

それにしてもこの上人という存在は、掴みどころがない感じだ。上人をどう《読む》かも「五重の塔」論のポイントだと思う。この上人の捉え方を含め、結末の源太の行動の意図や十兵衛の手下の職人たちの「冷汗」の意味など、高田読みのダイゴ味を満喫できた参加者は幸福だった(後からその類のメールも届いている)。現役の院生(東女と学大)5人を始め、参加者には多くを学べた講演だったと思う。

個人的には高田さんがこだわる「4人」は「3人」ではないかなど(数字の意味はここでは明かせない )、いくつかの点で違和感を刺戟され・脳が活性化されて感謝に堪えない思いでいっぱいです。それにしても高田さんの脳は衰えを知らず、若い!

 

次回はエトワール(赤星)君が牧野信一論(たぶん)を発表する予定です。