篠山紀信×樋口可南子『water fruit 』  鰐淵晴子のヌード写真

〈5月15日の記〉

偶然というのは不思議なもの・・・なのか、偶然ではなく意識(自覚)しているからつながるのであって、それが偶然のように見えるだけなのか・・・

今日のゴジム(東京MXの「5時に夢中」)でヘアー談義となり、例として篠山紀信×樋口可南子の『 water fruit 』が例に出されたのでビックリ。昨日内科の帰りに例の七七舎に寄ったら、100円コーナーにこの写真集が並べてあったのを見たばかりだからだ。(現在は水谷八重子(2代目)の特集なので無視しているけど)朝日新聞の「語るーー人生の贈りもの」の(八重子の前の)連載で篠山紀信の特集の際に、この写真集のことを語っていたと思うけど、まさかそれがいつもの古書店で売っているとはネ。七七舎は画集のみならず写真集も扱っていて、すぐに売れそうもないのを100円コーナーに並べているのだけれど、まさかヌード写真集まで売るとはネ。

最初はそれと思わず、珍しくヌード写真集らしい本があるナ、それにしても正面から見る限り貧相な身体だナと思って表題を見れば、何と『ウォーター フルーツ』だったので驚いたわけネ。手に取ってチョッと覗いてみたらむやみとヘアーが目に飛び込んできたので、さらにビックリ。白黒写真のせいもあるのか、篠山写真はアラーキーとは異なり美的なものという思い込みがあったせいなのか、グロテスクとしか受け止められずすぐに閉じてしまった。

ボク等の世代は(たぶん)見事なヌード写真というと、鰐淵晴子の(ヘアーを見せない)白黒写真の圧倒的な美しさが強烈に刷り込まれていると思う。ヨーロッパ人とのハーフの超絶美人として知られていたけれど、セイコーの御曹司と離婚した後の再婚後に写真家の夫が撮ったものだ。美顔のみならず、女体の美しさまで具えていたので驚いたのだナ。

それに比べるまでもなく、樋口可南子の身体は後姿を除けばヒトに見せるものとは思えなかった。不快感を狙ったとも思えないけど、見ちゃいられないシロモノだった。篠山が「語る」の欄で、日本にヘアー写真を許容できる雰囲気を作るべくチャレンジしたようなことを言っていたかな?

そもそもボクには写真を鑑賞する能力がないのかな? 今度ゼミとかでミチルちゃんに会ったら『ウォーター フルーツ』の観方を教えてもらおう。それ以前に、ボクには女体の美を鑑賞する能力が欠落しているのかな? その場合は誰に教えてもらえばいいのかな? 自信のある人がいたら教えて!