【シドクⅡの書評】図書新聞  松波太郎

 ボッキマンこと松波太郎さんが『図書新聞』2月29日号に載せてくれた書評の原稿をコピペさせてもらいます。実際の記事との差異はほとんど無いと思います。

 

開閉のあわいを泳ぐ

 

 「忙しそうだから無理とは言わないけど、その気があれば書いておくれ」というメールを関谷氏ご本人から頂いた時、正直面倒だなと思った。その時はそこまで〝忙し〟くはなかったのだけれど、第一〝その気〟がなかった。とりあえず一冊ご恵投くださるとのことで、読んでから決めさせていただくという話にしておいた。素晴らしい御本過ぎて自分には過分の任で……とか何とか言い逃れようと思っていたのだが、《前書き》に〈生涯最後の本〉といきなりある。私の逃げ道は閉塞した思いで、今この書評の中で筆を泳がせている……〝閉塞〟という語はおそらくこの書中からえたもので、対義の〝開く〟と共に頻出している。氏はこの書を外に開きたいようだ。ここまでの筆致をご覧いただけばおわかりなように、私は氏に対して複雑な気持ちがある。無論院生時の担当教員の一人としてお世話になった。愉快な方々も紹介して頂いた。氏自身もけっこう愉快だ。酒も飲ませて頂いた。逆に書評もして頂いた。ダンディーでシュッとしている。声もいい。それでもずっと好きだったわけではない。嫌いだった時も少なからずあり(大体4割)、その好悪は自己に対する割合ともよく似ていたから、僭越ながら私自身にちかしい近親憎悪的なものを感じていたのかもしれない。おそらく氏もそのような割合でご自身を見つめてこられたかのような省察を、まずは本書の構成から受けとることができた。大体6:4だ。〈加速度的に進行するモノ忘れ〉を心配しながら、〈同一化〉されていく研究業界、ひいては――というように配列上読める志賀のテクスト、そして〈閉塞〉感から一歩二歩外に出ていく太宰テクストの先に、〈居心地の悪〉い安吾テクストに氏は直面する。《後書き》にはそれぞれの論の概要が記され、初出にそれぞれ年差があるものの、問題はこの論を選択し、ここに並べた今現在にある。〈お好みの論からお読みいただくのが一番〉という〝開いた〟口上はあるが、この書こそ連綿と続く原義通りの〝テクスト〟として順に繰っていくべきだろう。論の順についての言及はなく、言及が仮にあったところで、〈昭和十六年十二月八日之を脱稿す。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり〉という太宰の自己言及に鮮やかにツッコミを入れている通り、語り騙られている可能性を読者はつねに念頭におくべきである。テクスト外部の情報に易々と振り回されてならないことを説いている歯切れの良さも、歯肉ごと衰えていくのを感じるのが〈安吾論〉であり、《前書き》でもこの論が出版遅延の主因とされている。読者側からすると〈複雑な構造〉のまま――いわば開かれすぎたテクストのまま放っておいてもいいように感じられてくるくらい、氏は必死に〈整序化〉をはかる。6:4が1:9になっているくらい、ここだけ自己嫌悪の感も激しい。なかなか整序化できずにもどかしそうにも書き連ねる氏の姿勢を目のあたりにし、単に開こうとしているわけではないことを読者は知るはこびとなる。〈モノ忘れ〉の〈加速度〉にそのまま乗じるつもりもなく、みずからの意思で〈断崖からの跳躍〉をし、次の檀一雄を〈泳いで〉いくのである。安易に実在の関谷氏と「氏」を結びつけることにも引け目を感じだしているが、ちなみに実際のゼミでも「火宅の人」を読み合ったことがある。今も鮮烈に憶えているのは、氏がどうしても〈泳ぐ〉手段で読もうとしていたその前傾の姿勢である。他のテクストではずっと背すじもシュッとしていた。無論テクストからそのように読んでいたのだろうが、その姿勢にこそ圧倒された記憶がある。何故この人はここまで〈泳ぎ〉たがるのか……ともするとテクスト論という泳法は読み手の手つきのみならず、心身の姿を生々しく抄写することになりかねない学びを勝手に得たつもりになっていた当時の私のような若僧時代の論文〈「金閣寺」への私的試み〉が、末尾に来る。紙幅上ざっくりとしてしまうが、その手前では同じ三島テクストの〈死〉やさらには〈亡霊〉等もモチーフにしたテクストを開かれた筆致で泳ぎきってくるので、その〈一九七一〉年の学生時代に〈谷原一人〉という筆名で著されたそうである文章の〈私的〉な閉ざされ具合には、この書評を引き受けざるをえなく感じた〈閉塞〉と同等のものを感じる。そこでは戦後社会への三島の開閉の意識をなかば責め立てる調子で問い、そして現在の氏とは異なる筆致、さらには章番号の直後にすぐに引用文を配置したり、作家当人の対談をそのまま引用したりする〈エゴ〉の強い構成にもなっていて、戦後社会を生きる氏自身をも問い詰めているよう窺える。いわば安易に開くことをかつての自身に牽制されながら、氏は《後書き》に入っていき、各位にも謝辞をのべて――不肖松波の名も出して頂いて、本書は閉じられていくわけだが、テクストは開かれ続ける。開かれ続ける存在であることを教えてくれたのは、「氏」と氏だ。私はテクストの内外から教えられている。だから最後の〈二〇一九年八月 ヒロシマの日に〉という擱筆の文言も信じない一方で、氏はずっと戦中と戦後のあわいをも切り開きながら泳ぎ続けていくものだとも信じたい。開くことと閉じること。そして論文ともエッセイともつかぬ〈二重性〉のあわいを泳いでいくべきテクストがまだまだこの先にはきっと続いていくはずだ。続いていかなければ真に〈開いた〉ことにはならない。その《後書き》の後書きに至った時にこそ、書評とも小説ともつかない手つきでここまで泳がされてきた私の方が先に筆を擱いて、堂々とこう開陳するつもりだ。先生、やっぱりテクストを論じるのは面倒くさいです、と。ましてや〈生涯最後の本〉だなんて、そんな閉じるようなことおっしゃらないで。