【見る】映画「三島由紀夫 vs 東大全共闘」  小阪修平  内田樹

 今日の朝日新聞のテレビ番組欄のページに、三島由紀夫と東大全共闘との対決を映画化したものの宣伝が載っていた(3月20日がロードショーとのこと)。両者の討論は雑誌に載ったり本にまとめられたりしているので周知だろうけど(雑誌は手許にあるけど、単行本は去年法政院生の杉本クンがくれた)、ボクはキチンと読んだことがない。三島が肝試しのように全共闘の集まりに乗り込んだ、ということをアピールしただけという印象ばかりで、生産的な議論など期待しようがないからだ。〈反体制〉という点では両者が一致していたので、三島が「君たちが〈天皇〉と言ってくれれば、オレは諸君と一緒に行動できる」と言ったというのはホンネだろうネ。

 あの場(東大駒場900番教室)にボクはいなかったけれど、実はそれはショーモナイ偶然にすぎなかったのだネ。三島と対決した「全共闘」の実体がよく分からないのだけれど、そもそも三島を呼ぼうという(実現性はあまり信じてなかったけど)企画案は、ボクらのグループのものだったのだネ。いろんなことを企画したり実行したりしたグループだったけれど、三島との対決を実現させたのはそのグループだったのだネ(あるいは他のグループと協力したかも)。詳細が不明なのは、三島を呼ぶ案について相談した記憶はあるけれど、間もなくボクはバイト先の運送屋で仲の良かった運転手と相撲をとり、腕をケガしてしばらくの間故郷の前橋に帰っていて何も知らなかったのだネ。

 書き始めてしまったので対決本をチェックしている余裕はないけれど、記録の紙面に小阪修平という名が出てくればそれがボクらのグループの理論家(イデオローグ)なんだネ。小阪修平といっても知っている人はいないだろうけど、一時期は深夜の民放テレビにも露出してキタロー(大竹まこと等と一緒に「シティボーイズ」のメンバー)相手に世界の思想を解説していたこともあった。古書店で昔の思想関係の雑誌を見れば、目次に小阪の名を見出すこともあるはずだし。

  

(ここで朝日新聞(夕刊)の故人解説欄の切り抜きを見つけたので、参考にしつつ続ける。ということはそれだけ著名人だったと言っていいのかも。)

 2006年に撮影された写真が載っているので、心臓の病で(?)亡くなったのは翌年なのか60歳だったようだ。『思想としての全共闘世代』という本で知られていた、と朝日の記者(藤生京子)が書いているが、66年に東大に入学したそうだから2年先輩になるのだネ。その割には、新入生のボク等とは数段上のレベルの知識と思考力を持していたネ。小阪が〈祭〉をキイワードにして全共闘運動を位置付けるような議論を展開していたのを聴いたことがあったけど、それが吉本隆明の「共同幻想論」を基にしていたことはだいぶ後になって知ったくらいだ。そんなことには無知だったボクは、全共闘運動には〈祭〉の面だけでなく〈お祭り〉の要素も必要だと発言したものだ。

 ともあれ小阪修平を理論家としたグループの中心は、元「中核派中の小野田派」だった加納という人で人望が厚かった。小野田派(の一部?)が出していた雑誌が『遠くまでゆくんだ』という、吉本隆明「涙が涸れる」という詩の言葉から名づけられたものだったけど、手許には1冊も残ってないネ。加納さんについては学生運動家という前歴以外はほとんど知らなかったけど、駒場共闘会議(助手だった最首悟さんが中心)の主要メンバーの会議では加納さんの発言は重かったネ(ボクはクラスの全共闘「けじらみ集団」の代表として出席していた)。

 

@ 三島に戻れないまま長くなってしまったので、いったん切ってアップしておきます(保存しておくと続きが遅くなりそうだし)。訂正があれば後でやります。