「前書き」もそうだけど、生涯最後の本なので「後書き」も我がジンセイが伝わるように、師匠や友人などの名前とつながりを敢えて記したので、そのつもりで受け止めてもらえると嬉しいネ。
《後書き》
最初に収録論文の初出事項(副題は略しつつ、雑誌名は新字体にして略名を利用した)と、簡単なコメントを付しておきたい。
「太宰文学の特質」(『国語と国文学』二〇一二・四)
東京大学国語国文学会の求めに応じたもの。学会員の老化防止のための刺激として書かせてくれたものであろう。研究者だけに閉じることがなく、幅広い読者に《開かれた論》を意識して書いた姿勢が、本書全体の意向につながっている。研究者には苦い顔されても、一般の読者は楽しんでくれるものと期待している。しかし崇敬するインテリ研究者である渡邊正彦さんから、《他者・同一性・自己完結はなかなか重宝なアイテムと思われ》など過褒な言葉をいただいているので、意外に研究としてもイケテルのかもしれない。
ただし言語論的見地から言えば、大きな課題が残る。〈同一化の連鎖〉は日本語の特質であろうという予断が、私にはある。〈外〉への広がりを持たぬまま求心的に〈内〉に向かうため、言語も文化も〈同一化〉が進むことになる。だとすれば漱石が「明暗」でこの連鎖を断ち切ることができたのは何故か? 志賀や太宰とは異なり、漱石が長年欧文脈になじんでいたために、日本語・日本文化との格闘の末に「明暗」の達成が果たせたのか? 後の章の安吾(や鷗外)にも深く関わる問題ではありながらも、有効な論に出会えなかった。日本語という特殊言語にまといついているアポリア(難題)は私の手には余るものの、余生のボケ防止のためにも愚考を重ねていきたいと思っている。
「『春の枯葉』」(『太宰治研究』二〇〇六・六)
初出題は「『春の枯葉』精読」で、初出末尾に付したとおり東京学芸大学在職中に顧問をしていた自主ゼミ〈昭和文学ゼミ〉の夏合宿(宇都宮大学の卒業生も合流)における議論を吸収している。いつもストレートな感想を寄せて下さる鈴木啓子さんからの、《作品論の醍醐味を見せられた気がいたしました。会話の綾を読み解いていく手際はさすがで、ぐいぐい引き込まれました》という感想には、《コシの強い文体ならではの力業》という評価ともどもとても励まされた。
「『如是我聞』」(『解釈と鑑賞』一九九九・九)
「太宰治の謎」という特集号。当初は「二十世紀旗手」論を依頼されたものの、私には興味も論じる能力もない作品だったので、新進気鋭の大國真希さんを推薦して代ってもらった。その代わりに執筆者が埋まっていなかった「如是我聞」論を書かせてもらったしだい。
四度に一回くらいはお断りしたかもしれないながら、至文堂からの依頼のお蔭で論文を書く習慣を持続できたのみならず、井伏鱒二を始め多くの作家や詩人と出会う機会を与えていただいた感謝の気持を、当時の至文堂各位にお伝えしたい。
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前著『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社、一九九六年)には以下の三本の作品論が収録されている。
「『ロマネスク』――〈無用の人〉たち」
「『女生徒』――〈アイデンティティ〉の不安」
「『桜桃』――揺れる〈人称〉」
『小林秀雄への試み』(洋々社、一九九四年)にも次の太宰論が収録されている。
太宰治に関する論は、他に以下の四本がある。
「『苦悩の年鑑』」(『解釈と鑑賞』一九八八・六)
「太宰治――昭和20年~23年」という特集号。論の冒頭を《つまらない作品である。》と始めているように、作品のレベルが低いと論じる意欲が殺がれるのが常である。打率の高い太宰にあって数少ない低調な仕上がりで、テクストの言葉に面白く読ませる力を感じないまま、《生身の作者のエッセイ》として読んだまでのもの。
「『富嶽百景』の読み方、教え方」(『現代文学史研究』二〇〇七・六)
初出に付したとおり、(故・中村三代司さんを介して)淑徳大学付属高校の先生方の研究集会における、講演と討議を踏まえたものである。テクスト末尾の「酸漿」の意味の解釈には新味があると思う。
「〈作家〉の痕跡 『右大臣実朝』と『吾妻鏡』」(『太宰治研究』二〇一三・六)
【作品とその生成要素】のシリーズとして、「吾妻鏡」との関連を論じるように依頼されたもの。単純に〈作品の生成〉を跡付けることよりも、原典との対照から新しい読みを探ったつもり。殊に公暁が他の登場人物に対してのみならず、テクストにとっても〈他者〉であるという読みが斬新か。
「『ダス・ゲマイネ』から」(『太宰治研究』二〇一七・六)
定年退職後に求められて書いたもの。二五号で終刊した年刊誌『太宰治研究』の記念と、太宰研究において育てていただいた恩を感じている山内祥史先生に対する謝意のために書いたもの。
最初に《今さら「ダス・ゲマイネ」のテクスト分析をする必要性も感じないし、その意欲も無い。》と明言しているとおりで、「太宰文学の特質」を書いた頃から既に太宰研究の意欲を失っていた。「ダス・ゲマイネ」論なら安藤宏と松本和也両氏の論考で十分だとも考えていたので、敢えて今までの自分自身の読み方に反する書き方を選んだもの。《作中人物に当時太宰の周囲にいた実在の作家たちの姿》を読み取るという姿勢で読んでみた。事実に還元してしまう私小説読み方は認めない立場であるにもかかわらず、テクストから浮かび上げる檀一雄や山岸外史などの姿を楽しんでしまったというところである。
なお『太宰治大事典』(勉誠社、二〇〇五年)では、「日本浪曼派」と「如是我聞」の項目を担当した。
自身の太宰研究が中だるみしていた頃に坂口安吾研究会に呼んでいただき、押野武志という逸物と出会って目覚めた思いで太宰や安吾を読み返した成果。安吾のテクストは「居心地が悪い」という把握に対しては、安吾研究者から少なからず共感の反応があった。
「何やらゆかし安吾と鷗外」(『坂口安吾 復興期の精神』(双文社出版、二〇一三年)
坂口安吾研究会の求めで書いたもの。表題のとおりで、求心的でないテクストの在り方を示す、安吾と鷗外との共通性に気付いて書きとめたもの。先行する数多くの「白痴」論に欠けている、緻密なテクスト分析を提示しえた手応えと、先行研究が乏しい「二流の人」のテクスト分析を初めてなしえた達成感を持てたもの。
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安吾論としては他に、
「『イノチガケ』小論 安吾の書法」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・一一)がある。
「坂口安吾の魅力」という特集号。不十分な論考であることは自覚している上に、作品に魅力を覚えないまま、改めて書き直す気持も余裕もないので収録しなかった。右の「何やらゆかし安吾と鷗外」に少々引用してある。
「檀一雄の文学」(『解釈と鑑賞』二〇〇二・五)
「日本浪曼派とその周縁」という特集号で、「日本浪曼派の人々とその周辺」としての「檀一雄」(初出題)の項目。至文堂編集部のお蔭で檀一雄文学と出会うことができ、とりわけ感謝しているものである。初期の檀の作品には、三島由紀夫以上のロマンチシズムが紛々と匂ってくる感じに圧倒される。三島論者を始め、初期の檀文学を論じる人が少ないのは残念だ。
「『火宅』」(『解釈と鑑賞』二〇〇八・四)
「近代文学に描かれた性」という特集号で、初出題は「檀一雄『火宅』シドク」だった。檀一雄のテクストが十分に分析に価する、ということを証明しえた画期的な論だと自負している。しかし他の檀作品を論じたい気持がありながら、未だに果たせないままなのは吾ながら情けない。檀一雄が広く読まれ、批評家・研究者からも再評価されることを願ってやまない。
「三島由紀夫作品の〈二重性〉」(『現代文学史研究』二〇〇四・六)
初出題の「三島由紀夫小説の〈二重性〉」のとおりであるが、三島テクストがリアリズム・非リアリズムの両様に読める可能性を秘していることを明らかにしたもの。若き三島研究者から、「豊穣の海」など他の三島作品にも当てはまる着想として刺激を受けた旨の感想など、少なからぬ反響があった。
退職後の論考で、初出題は「三島由紀夫作品の諸相――『近代能楽集』各篇の読み方」だった。著名すぎる作品であり先行論文も多数ありながら、十分なテクスト分析ができているものが見当たらなかった。副題の「各篇の読み方」という上から目線のもの言いは、そうした傾向を正した達成感に依拠している。などと大言壮語するのは、学部一年生の時に故・木邨雅文と二人で北海道三週間テント旅行をした際に、唯一携行した文庫が「近代能楽集」であり、大学の授業でもテクストを十分に《読む》ことができずにいたものが、退職後にやっと論じきれた喜びからである。
「『金閣寺』への私的試み」(『まんどれいく』一九七一年*谷原一人の筆名〉
前橋高校の同級生・五十嵐昇君たちと、大学闘争が一段落した頃に出した同人誌に載せたもので、生涯最初の文学論考として記念のためのもあって収録させてもらったが、「近代能楽集」論や檀一雄「夕張湖亭塾景観」論の補足にもなっている。表題は専門課程進学後に師事した故・三好行雄『作品論の試み』の影響が露骨ながらも、内容は三好師の「金閣寺」論のような精密を極めたテクスト分析とはまるで異なっている。本論だけは当時の雰囲気を残すために、まったく手を入れていない、引用も文庫のままである。
マネをしたという先人は思い浮かばないけれど、大学二年目の頃に読んでいたのは江藤淳が多かったろうと思う。とはいえ江藤淳の影も見当たらないながら、後に日本を代表するブレイク研究者となる都立大院生だった大熊昭信さんが、「達意の名文」と褒めてくれたものである。キー・ワードの「アイデンティティ」も流行以前だった頃で、時代を先取りした論点だと思う。
ずいぶん前に本論を三島研究の支柱の一人・佐藤秀明さんに送ったら、《三島論はこの論からどこまで進んでいるのか?》という過剰な褒め言葉をいただいた。当時編集中の「金閣寺」論集成(大空社)にも収録したい旨も洩らしてくれたものの、刊行された論文集から本論が洩れていたのはシュウメイの正常な判断であった。
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三島に関しては他に、
『三島由紀夫事典』(勉誠出版、二〇〇〇年)の「剣」と「裸体と衣裳」の項目を担当しているが、「剣」については本書の「三島由紀夫作品の二重性」でも展開している。
定年退職記念などの名目で、既発表論文を何でも収録して読者に迷惑を強いている著書も少なくないようである。本書はその愚を避けるべく、作家も論文も自分の守備範囲で精選したつもりではある。はずした論の中にも水準を超えていると自負するものもありながら、読者が少ない作家である等の理由で収録を避けた。明治から昭和までの小説や批評についての論ながら、種々バラついているので関心のある人だけが読んでくれれば好いと思う。その中から十編を厳選して示せば以下のとおり。
数年前に発行停止となった『解釈と鑑賞』(至文堂)は大学図書館なら備えているであろうが、一般の読者のためには立川の日本文学資料館などに完備されていると思う。『現代文学』は国会図書館だけにしか寄贈されていないこともあり、お読みいただけるのなら請求に応じてそれぞれの論文コピーをお送りする気持ではいるものの、個人的情報である住所を明記できないのが残念だ。
「『故旧忘れ得べき』【高見順】」
(三好行雄編『日本の近代小説Ⅱ 作品論の現在』東京大学出版会、一九八六年)
「試読・私読・恣読(Ⅲ)――『歌のわかれ』」(『現代文学』一九八八・七)
「試読・私読・恣読(Ⅳ)――小島信夫『小銃』」(『現代文学』一九九一・八)
「夏目漱石『行人』――〈二〉対〈一〉の物語」(『解釈と鑑賞』二〇〇一・三)
「志賀直哉『小僧の神様』精読」(『解釈と鑑賞』二〇〇三・八)
「服部達小論――吉本・江藤の先行者」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・二)
「秋山駿――批評を可能にするもの」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・六)
「山本有三『嵐』シドク――〈自分探し〉と〈犯人探し〉」(『解釈と鑑賞』二〇〇八・六)
「三浦哲郎『ユタとふしぎな仲間たち』」(『宇大論究』二〇一〇・三)
収録された論の多くは学部・大学院の授業、あるいは自主ゼミや夏合宿における学生・卒業生たちとの間で〈読み〉の差異を楽しんだ成果でもある。例えば「火宅」論は、くり返し芥川賞を逸して最近は浦和で鍼灸院「豊泉堂」に情熱を賭けている松波太郎さんが、一橋大学の院生だった頃にレポーターだった彼との間で〈読み〉を競ったものである。先年《研究者は同時代の小説を論ずべきではない》という自らの禁を犯し、氏の『ホモサピエンスの瞬間』(文藝春秋社)の書評を書かせてもらったけれど(『図書新聞』二〇一六・六・一八。)、礼状に小説の読み方のみならず書き方においても院生時代の授業が役立っている、との世辞があった。その程度には社会人として成長しているのかと、教員根性を発揮して喜んでいる。
装丁してくれた金城孝祐さん(武蔵野美術大学修士課程修了)は、私が東京学芸大学在職中に顧問していた自主ゼミ「昭和文学ゼミ」を通じて知り合った画家であり演出家でもあり、小説や戯曲を書く作家でもあるという多才な人である(釣りは下手!)。私が小説よりも政治的発言に共感を覚える高橋源一郎さんに評価され、小説『教授と少女と錬金術師』(集英社)ですばる文学賞を受賞した有望作家ではあるが、今回は画家の才を発揮してもらうべく、装丁をお願いしたものである。
古稀を迎えて老い先を考えると、「生涯の秘密」を明かしておくべき時であろう。以下の論考は私以外の人が、私の名で書いてくれたものであることを告白する。
『太宰治事典』(学燈社、一九九五年)中の「太宰治キーワード事典」における「自殺/心中」の項目
『日本文芸鑑賞事典 9』(ポプラ社、一九八八年)中の「地獄の季節」の項目
太宰治の方は見開き二ページのものであるが、東京学芸大学で太宰治の修士論文を書いた北川秀人さんが全面的に代筆してくれたものである。もちろん編集責任者の東郷克美さんの許可を得た上での仕業であったが、忙中ながら幸い北川氏に助けられて責務を果たすことができた。
小林秀雄の方は七ページのもので、宇都宮大学在職中にリンパ腺のガンで入院していた時、ランボーに無知な私に向かって小林秀雄研究者の津久井秀一さんがレクチャーしてくれたものをまとめたものである。九割がたは津久井さんの手柄と言っても過言ではない、感謝あるのみ。
思えばこうした若い仲間たちに支えられながら、何とか古稀を迎えることができたわけである。いや若い人たちに限らない。在職中に出した前二著の校正は主に当時の学生が中心となって助力してくれたが、本書の校正は何と職場の大先輩である宮腰賢先生からお申し出をいただき、そのプロ並みの能力に頼らせていただけたのはありがたいかぎり。お蔭で百に近い誤記を正すことができて恥をかかずに済んだのみならず、各論に対していただいたご評価にも力づけられた。二重三重のご助力を思うと感涙止めどない。
宮腰先生をはじめ、お世話いただいた多くの人たちにこの感謝の気持が伝わることを願ってやまない。
本書はむかし友人が大変お世話になったのが機縁となった、旧知の加曽利達孝さんにお願いして鼎書房から出していただくことになった。本造りに関しては《開かれた書》にしたいという私のわがままを快く受け入れて下さり、前著『シドク』の小粒ながら中身の濃いものという方針にならいつつ、望みうるベストの形の本にしていただき感謝の念で心が落ち着かないままでいる。
実際の本造りの作業を独りで担当してくれた小川淳さんには、過剰なまでに面倒をおかけしてしまい死ぬまで足を向けて眠れない。他人の本のために時間と情熱を割いてくれる、編集者という存在の不可思議さを改めて感じている。
鼎書房のさらなる進展を願いつつ、今後とも名著出版のためには積極的な協力を惜しまない所存でいる。
二〇一九年八月 ヒロシマの日に
関谷 一郎