【読む】サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

 1ケ月ほど前だったか、ツクホーシがメールで村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の感銘を伝えてきた。野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」のリズミカルな文章に親しんできたボク(とはいえ読了してない)としては、既に野崎孝の名訳があるのに何故ハルキは出しゃばり気味に訳出したのか分からん、と応えたのを覚えている。その何故を明かしてくれた同時代評が出て来たので、紹介しておこう。ちなみに野崎訳は国分寺古書店「七七舎」の100円コーナーに出たまま、先週も売れ残っていたヨ。

 2003年5月の朝日新聞「読書」コーナーで、中条省平さんがハルキ訳の書評をしていた。

 《三十年前に野崎訳で読んだとき、ホールデン(主人公の語り手)は、下町のべらんめえ口調でまくしたてるやんちゃ坊主といった感じだったが、村上訳では、山の手言葉でああでもないこうでもないと愚痴る引っこみ思案の少年という印象である。》

 なるほどの見事な対照で、「翻訳は創造だ」というのがよく分かる。

 《さて、村上訳で読み直すと、主人公のアブナさが浮き彫りになる。(略)村上春樹の神経質な文体は、この小説の新たな読み方にうってつけだ。

 (略)この小説が死についての省察であること、また、筋金いりの反軍・反戦思想の書であることなども見えてくる。》

 なるほどハルキはそういう読み取り方をしていたので、自身で訳さなければ気が済まなかったのだネ。野崎訳だけで読んだ気になっていると、伝わってこないものがあるかもしれないのだネ。かといってハルキ訳まで手を伸ばせないヨ。ハルキ訳のオブライエン「本当の戦争の話をしよう」だって、まだ3分の1くらいしか読めてないのに。