【読む】鹿島茂の小林秀雄論

 本屋で『ドーダの人、小林秀雄』(朝日出版、2016年)という表題を最初に見かけた時から、イカガワシイ本だと感じてしまった。目次を見たとも思われるけど、あるいはパラパラとめくってみたかもしれないものの、読むに価する本とも思えなかった。学部1年生の頃には一緒にストライキ破りの授業再開を阻止しに行った仲だし、学芸大在職中に研究費で備えたフランスの歴史・文化の本のウンチクの広さに教えられ、楽しませてもらったのも確かではある。しかし未読書ながらエッセイではスゴイ賞を受けた鹿島が(20歳ころの付き合いなので、どうも敬称は使いにくい)小説まで出しているのを本屋で見かけ、自己誤認ぶりにガッカリしたこともある(調子に乗り過ぎるなよ! そう言えばルー[小森陽一]さんも小説出していたかな)。

 「英雄たちの選択」などで見かける鹿島も、(高橋源一郎のように)シッカリ準備して至極真っ当な意見を披露しているので、何故こんな低レベルの本など出すのだろう?と理解に苦しみながら無視し続けていたものだ。しかし信頼すべき具眼の士・ヒッキ―先生が先ごろ「あの小林論、意外に面白かった」と言ったのでビックリし、自分で確かめなくてはいけないかなと思い直したしだい。アマゾンで買うに際してPCに苦労しながら、何とかゲットして読み始めたところ。

 「ドーダ」というのは東海林さだおのエッセイから取った「ドーダ、マイッタか!」の意味だそうだから、あまりの低次元ぶりに呆れてしまった。その次元で日本の近代文学史をドーダの観点から読み解こうと考え、朝日新聞出版社のPR誌『一冊の本』に連載して『ドーダの近代史』という本にまとめたということだそうで、メディアに消費された末の悪例になったしだい。続けて同じ発想で「ドーダの文学史」を連載したというのだから、文学に弱い朝日らしい(とはいえ強い新聞社も見当たらないが)見識の無さである。小林論はそこから一部を引き出してまとまたものとのことだけれど、《連載はかなり迷走し、脱線が甚だしくな》ったというのも、ドーダの概念規定が怖ろしくアイマイなためなのは当然だネ。

 

 読むに価しない低次元の本を書かせるメディアの罪は大きいけれど、そういうメディアに消費される側にも問題があるので、鹿島のみならず内田樹に対する苦言を呈しておきたいネ。玉石の区別がつかない読者のレベルも問題ではあるものの、そもそも書きたくもないのに水増しして書く(出す)、という志の低さが《量より質》がモットーのボクには理解できない。

  ことわるまでもなくアバウトでイイカゲンな「ドーダ」のことだから、マルクスからフーコーデリダ等々の「虎の威を借る狐」のヤカラとして己自身も含まれることを、鹿島も認めざるをえないと素直に認めている。以上が「はじめに」についての感想だけど、「ドーダの人、鹿島茂」がどこまで小林秀雄に切り込めているか、長くなるので機会を改めて記すことにしたい。