法政大シンポジウム(その2)  田中和生

レジュメを見て驚いた!
個人的にもとても興味のある「日本近代文学におけるリアリズムの流れ」(ボクの言葉)というテーマの講演だったのだけれど、設定された「テクノロジーとアート」という全体の(?)テーマの「テクノロジー」をリアリズムにザックリと置き換えて文学史を整理した手際にはビックリ。
(それなら「アート」は没理想論争における鴎外の主張に当たる気がするのだけれど、逍遥の主張である現実描写=「テクノロジー」との対比で文学史の流れを捉え直すのも面白いと感じた、田中さんはそこまで考えてないと応えたけれど。)

さて田中さんの家の書斎机の周囲にある本から選んだという後からの説明だったけど、「リアリズム」の流れをたどるための作品選択が斬新極まるので一聞の価値がある。
(ちなみに田中氏については全く知らなかったので、これも後から文芸批評家であることを教えられた。)
まずは〈リアリズム黎明期〉として「三四郎」・荷風「深川の唄」・水上瀧太郎「銀座復興」の3作、「江戸と東京」というテーマに沿って〈東京〉の変貌ぶりを3つの作品で確認したところまでは分かりやすい。
「江戸と東京」の対照はパネリストの1人である中丸宣明さんの講演でも語られていたけれど、彼は討論の際に小林秀雄「故郷を失った文学」や鴎外「青年」を引き合いに出して補足していた。
小林のエッセイは昭和8年発表のよく引用されるものだけれど、東京に生まれ育った自分には地方出身者が保持する「故郷」と言えるものがない、という感想が語られている。
中丸氏が「青年」で補足したのは、主人公が東京の地図を見ながら見物をするという点だった。
お2人の論点をボクなりにまとめさせて発言させてもらったのだけれど、上記の3作家は東京に生まれそだった「東京モン」だから近代化によって東京(江戸)が壊されていく喪失感が読み取れ、そこから(中丸氏がくり返した)自然の賛美に至るというパターンになるのだろう。
「東京モン」にとっては東京が《身体化》されているので、東京が壊されることは自らが侵される感覚なのだろう。
鴎外はほとんどの自然主義文学者と同じく「田舎モン」なので、《身体化》されていない東京見物するには「地図」という媒体が必要だった、つまりは東京が《観念》でしかなかったと言えるだろう。
三四郎」は田舎モンである主人公が、東京という《現実》を理解して行く物語ではあるものの、上京中の記者で乗り合わせた東京モンの広田の上から眼線で三四郎を追っている点で「青年」とは異なると考える。


続いて〈リアリズム成熟期〉の作品例として田中さんが上げているのが、三島由紀夫鏡子の家」と村上春樹ノルウェイの森」というのだから、斬新というほかない。
一般の文学史では自然主義文学を上げるところを、完全に無視しているところが潔くて快い。
これもよく言われるとおり、自然主義がリアリズムを唱えながらも、その出自であるロマン主義を抱え込んでいたためにリアリズムの精度が落ちるという判断からだとすれば、田中さんの見解の高さに賛同したい。
それにしても一般にはリアリズムとは対極に位置づけられる三島と春樹を例示するとは、田中さんもスミに置けない人だと思う。
もちろん「ノルウェイの森」は春樹自身が言うとおりの「リアリズム百パーセントの小説」(出典は知らない)という例外の作品だし、「鏡子の家」には三島得意の修飾語が少ないという判断からの選択とのことだった。


〈リアリズム解体期〉になると田中さんのお得意らしい現代文学になるので、無知なボクとしては承るだけで口を挟む能力はないので紹介だけにする。
上げられた作品は、後藤明生「挟み撃ち」・田中康夫「なんとなく、クリスタル」・吉田修一横道世之介」の3作で、吉田の作品は朝日新聞連載だそうながら自慢じゃないが全然知らなかった。
田中康夫なら目を通した記憶があるので、田中和生氏が言う「情報の羅列」「記号の集積」という「リアリズム解体」の様相が理解しやすくて面白かった。
ともあれ、田中和生さんには今後とも注目して行きたい。