【読む】小林秀雄の「修正」 『共同研究 転向 下』 ハンナ・アレントのナチ批判  加藤典洋『敗戦後論』中の愚論

 とても親しい卒業生から、小林秀雄が己れの不都合な言説を後で「修正」したという論文を読んだけど、資料としてコピーを送りますかというメールをもらった。返信として説明していたらむやみと長くなってしまった上に、補足まで書き足すハメになってしまった。時間もタップリかけたので、ブログの更新をする余裕が無くなったから、そのメールを3つながらコピペさせてもらう、もちろん固有名詞は匿名でネ。

 
 

小林の大衆像は、オレの小林論に詳しく展開したつもりだゼ。 
それを読んでも疑問があれば改めて質問せよ、と言っても本が見つからないのだろ(売りゃあしめえが)。 
小林の大衆像は、中野重治たちインテリの対極に理想化された虚像だネ。 
つべこべ議論ばかりで空転しているインテリの言説から、己れを切り離すところで創造されたイメージだと思う。 
だからますます国家に一体化して行く国民に付いていて行くことができず、数年後にはその大衆像を自分から切り離して焼き物などの世界に自己閉塞して行くことになるのだと思う。 
小林は小林なりに、大衆(プロレタリア)を理想化した虚像を創造して時代に処した、ということだろう。 
プロ文の連中と異なるのは、プロ文が戦後も相変わらず大衆を理想化し続けたのに反して、小林はいったん切り離した大衆との絶縁状態を守ったということ。 
だから小林が自分の言説を「戦後に修正した」と言うのは無知で誤った俗説だ。 
 
大衆に未練たらたらで、いつもでもその理想像に囚われているインテリの醜態は他人事(ひとごと)とも言えないので、小林がウラヤマシイよ、スゴイね。 

 

 
ボクのメールによる説明だけで済まそうというのはホメられないネ。 
『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』を探し出してキチンと読んで理解しないから、怪しい小林論くらいで足許がぐらつくのだヨ。 
『○○○○』は在職中毎号研究費で買っていたけど、退職したら止められたようだから某のコピーを送っておくれ。 
ブログでシッカリ批判しておくから。 
某は2つの全国区の学会名簿に載ってないから(ボクは日文協は一時的に入会した時があるけど、後で脱会したので某が載っているのかは不明)、無名の御仁なのだろナ。 
この手の小林批判は戦前から絶えることがなく、未だに気軽に言及したがるヤカラがいるので苦りきっている。 
全共闘運動で共に闘ったことのある鹿島茂まで、『ドーダの人、小林秀雄』などというキワモノを出すので、もう本は出さないと誓ったにも拘らず、自分のためではなく(匿名でも可)小林のためにクソみたいな論を封じるために啓蒙的な小本を残そうと思いついたのだヨ。 
 
『日本文学』や『社会文学』には旧左翼的な頭の悪い論が載るので始末が悪いと思っているから、某が無知をさらすのもウンザリだけど、見逃していては状況は変わらないのでガラにもなく啓蒙本を出そうかと考えたわけだネ(ローンから解放される3年後くらいに出したいと考えているけど、どうなることやら)。 
最近遅ればせながら加藤典洋敗戦後論』を読んでいる。 
そこにも加藤が××が引用している戦後小林発言を取りあげ、気軽に批判しているのを読んで、やはりコイツは頭が悪いと思ったヨ、アイヒマンがらみのアレント発言に注目したのは高く評価するけどネ。 
ともあれアレントアイヒマン裁判を傍聴して、「アイヒマンはナチの上級官吏ではなく、ただのオッサンだった」(オレ流の言い換え)と記したら世界のユダヤ人(に限らなかった?)から非難されたと知って、やっぱり分かってない連中が多いナとアレントに同情したものだ。 
ナチを100%悪者にして自らを正義の徒だと自己閉塞しているヤカラは、己れの脳が硬直化していることが自覚できないほど頭が悪いのだネ。 
ヴェルサイユ条約でドイツに過剰な負担を強いたため、抑圧されたドイツ国民がナチ支持に奔ることを止められなかった過ちを自らに問うことを怠ったヤカラは、アイヒマンヒットラーに仕立てるように躍起となって死刑にし、ニュルンベルク裁判という茶番に興じたわけだ。 
アレントの冷静さには驚嘆しつつ共感を抑えがたいネ。 
 
以上が某や、それに共感しそうな(?)な××をはじめとする『○○○○』の頭の固い読者に対する根底的な視野からの批判になっているのが伝わるかな? 
オレが何十年もの間、考え続けた出発点になった文献を教えるから熟読しておくれ。 
吉本隆明の「転向論」は学生時代から勧めていたから読んだだろうけど、その吉本も参加しているシンポジウムが『共同研究 転向 下』(平凡社)に掲載されているから、ホンキで読んでおくれ。 
この3巻本はどこの図書館にもあるはず。 
《大衆と付かず離れず》というリュウメイの基本的立場は、実は若き日にリュウメイが影響された小林秀雄の思考法から得たものだ、ということも『小林秀雄への試み』で指摘されているヨ。 
 
実は以前から、小林の啓蒙本の原稿の一部になるべき記事を、ブログにアップして行こうと考えていたけど、××からの今度のメールをイイ契機にブログに公表して行くことにするヨ。 
 

 

③ 

 
××は某の指摘に足許がふらついているだろうから、某の論に即して批判する前に伝えておくヨ。 
「戦後に修正」という指摘は間違いではないけれど、己れのテクストを何度も推敲して手を入れるのは小林の性癖と言える(井伏鱒二も同じ)。 
小林における「関係の飢え」を発掘したオレの論も、小林が昭和7年(?)の評論文に戦後手をいれる以前のテクスト(本文)に戻ってチェックした成果だヨ。 
ただ座談会やシンポでの発言にも手を入れるのは、小林に限らない雑誌界の常識だけど、「近代の超克」シンポジウムにおける発言の「修正」の仕方はハンパない。 
小林が政治屋のように「不都合な真実」を隠すために「修正」したと非難するのは、非難する側が自らの心の卑しさを投影しているだけだろネ。 
無知ゆえに気軽に小林批判ができると勘違いした某は、無恥というほかないけど、この手の無知・無恥(ムチムチ)したゲスは世の中に犬のウンコほど見かけるので、踏まないようにしてきたのだけどネ。