【ヒグラシゼミ】学大学会発表「茄子の輝き」(2)  《述語的統合》(○市川浩 ×前田愛)  近藤裕子『臨床文学論』

 紹介したばかりの『フィルムメーカーズ』掲載の友田義行さんの勅使河原宏論には、正確さに書ける記述がある。

 《『おとし穴』はほかにも、「そびえ立つ」という形態(墓石、ボタ山)や、「振り下ろす」というアクション(ナイフを突き立てる、蠅叩きを振り下ろす)など、主体を変えながら同じ形態や動作が反復され、パターンを形成している。国文学者の前田愛の言葉を援用するならば、「述語的統合」が行われていると言える。》

 前田愛自身が啓蒙書『文学テクスト入門』(ちくまライブラリー)で明らかにしているように、《述語的統合》を説いているのは市川浩『〈身〉の構造』(青土社講談社学術文庫)であって、決して前田愛のオリジナルな言葉ではない。そもそも前田愛は岩波知識人のグループ(山口昌男多木浩二など)から種々の理論を吸収しつつ、それ等を見事に(?)文学テクストに当てはめることに長(た)けていたのであり、新しい理論を創出したわけでは全くない。

 

 《述語的統合》とは対語の《主語的統合》を想定すれば伝わりやすいように、主体に焦点を当てるのではなく(友田論の例で明らかなように)述語に注目して考えるやり方だ。「茄子の輝き」でいえば、誰が電話に出たかではなく地震の影響を問い合わせた主人公に対して、娘(主人公の元妻)が留守だと応えることが大事なのであり、伝えるのは父であろうが母であろうが問題ではないということだ。この種の行為主体のアイマイさはこのテクストに頻出していたと思う。他の作品まで視野に入れれば、飛び抜けた傑作「死んでいない者」もその典型で「誰が?」が特定できぬまま語りが目立ったりで、あえて《主語的統合》を避けているようにも見える。

 ボクが初めて《述語的統合》という考え方を知ったのは、たぶんハカセ(学大博士課程の最初の博士号取得者である近藤裕子さん)の博士論文の書籍版『臨床文学論』所収の論文だったと思う。市川浩木村敏に詳しい近藤さんの影響もあってか、その頃の学大院生の多くが『〈身〉の構造』を援用した発表していたものだった。久しぶりにこの書の一部を読み返したけど(それ以前の『精神としての身体』もおススメだけど)、改めて実に深い味わいを感じたナ。最近流行る理論書が目先のツジツマを合わせるだけの机上の空論に思えてくるヨ。