【読む】『日本近代文学』第109集  金井景子  佐藤泉

 定年退職すると研究も辞めだと宣言する極端な仲間もいれば、学会も辞めて学会誌も読まないという人も少なくない。その気持も分からないではないけれど、むかし授業を担当したり・今でも研究上の付き合いもある若い人もいるので、ボクは学会に属し続けて知っている若い研究者の論文は読むように努力している。「努力」と言わざるをえないのは、学会誌の目次を見るだけで自分が拒否されているような気持になるほど、ボクの関心から学会の傾向が離れていき距離が広がるばかりだからだ。もともとボクは(流行りの)理論を利用して論文を書こうという気になれないせいもあるので、常に新しい理論に依って刺激的な論を立てようとする論文は理解に苦しむのだナ。もちろんハナから拒絶する気はない、若い頃はそういう意欲を強く抱くものだからネ。

 それでも近刊の『日本近代文学』第109集はそういう新傾向の論文が目立っていないので、親しみやすく感じたネ。特集の「エコクリティシズムとポストコロニアリズムの交錯点」にはまったく興味がないものの、金井景子さんが特集に論を寄せているのは柔軟な脳を具えているために新しい傾向に対応できるのだろナ、と感心するばかり。

 「新たな眷属を編む語りの座——石牟礼道子苦海浄土』、『みなまた海のこえ』の可能性を読むーー」という論がそれ。

 未読の作品についての論文は読まないようにしているけれど、ちなみに金井論の「はじめに」の3ページほど読んでみたら、水俣病の写真家の最新作品集への言及から始まるので金井さんの意欲に圧倒されて腰が引けたネ。論は反水俣病の闘いの歴史を振り返りながら、その写真家の学生時代までさかのぼりつつもやがては彼が運動を担う「眷属」に自己形成していく過程まで語っている。まさかの展開に門前払いされた気分で読むのを止めたけど、こんな調子で大論文を書き上げるのだから金井さんは、脳も意欲も加齢知らずなンだと感じ入ったしだい。

 むかし学会で佐藤泉さんの「苦海浄土」論を聴いたことがあったけど、レジュメに引用されていたテクストの不透明な箇所を佐藤さんが「よく分からない」とスルーしたまま、主に作品の全体像を対象に論じているので不満が残ったネ(それをブログにも記したと思う)。悪くすると社会科学系の論文のようにもなるので心配な傾向だネ、個人的にはテクストの《細部》を立ち上げる(読み解く)のがダイゴ味であり文学研究だと考えているからネ。もちろんテクストが作家という場合もあるけどサ。いずれにしろ《読む》ことが文学研究の基本だと思うネ。

 

@ 特集を除く論文の感想を書こうと思いつつ、特集について前振りしたらむやみに長くなったので「本番」はあとで書き直すヨ。