【読む】北川秀人さんの太宰論(4)  「花火」論  カフカ「変身」

 「花火」読んだかい?

 新潮文庫では『きりぎりす』の最後に「日の出前」の名で収録されているから、混乱しないようにネ。

 北川論は、作品と関連があるとされる事件で発せられた言葉と比較したり、坂口安吾の「文学のふるさと」を参照したりしている。殊に後者の切り口は先行研究には見当たらない(というのはボクが無知なのかも)ので刺激的だネ。

 実際の事件というのは作品の七年前に起きた「日大生殺し事件」であり、両親と長女が不良の長男に保険金をかけて殺害したというものだ。事件でも長女が、

 《母から説かれて兄さんに犠牲になっていただくことが一家を救う唯一の途だと存じましたから》と語ったという報道もあった。この類似性にとびついただけの先行研究もあり、レベルが低すぎて無惨ではあるものの、北川論は

 《表現としての類似性ではなく、その本質的な違いである。》

と研究者として実に正当な立場を堅持している。太宰治はこれはと思った言葉を、実に見事に己れのものにすることに長(た)けている。例えば「生れて、すみません。」というまさに太宰らしい言葉を作品に持ち込んでいるけれど(「二十世紀旗手」のエピグラフであることをマギー大國に教示された)、太宰の友人・山岸外史によればこの言葉は別の友人のものだったのを、太宰が盗用(?)して見事に自分のものにしたのだという(山岸の評伝が見つからないので詳細は言えない)。

 

 安吾のエッセイは概して理解しにくいものが多いながら、著名な「文学のふるさと」は特に理解しにくい文章だ。それでも強烈な刺激を与えられながら考えさせられるので、読んだことのない人はこの際一読しておいた方が恥をかかないだろネ。安吾は「赤頭巾」の原話に近いものを取りあげ、そこに独特な「ふるさと」を見出している。

 《お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。

   私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。》

 赤頭巾が狼に食われてしまう不条理さと、「花火」の「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」という妹の言葉の意想外さとが共振しているというのが北川論の問題提起だ。読者は妹の言葉をよんで「いきなり突き放され」、「約束が違ったような感じで戸惑い」「プツンとちょん切られた空しい余白」に取り残されてしまうからだ。

 

@ 記事も長くなったので、ここでいったん「プツンとちょん切」るネ。2つの話が不条理な点で共通するとすれば、カフカ「変身」を想起して論じている人もいるとは前に記したと思うけど、これを機に「変身」を未読の人は絶対読んでおくべきだネ。「変身」を知らずにいるというのは、確かに恥だからネ(短いからすぐ読めるし)。