【読む】北川秀人さんの太宰論(5)  「花火」論

 「花火」の結句、妹の言葉の衝撃は確かに「文学のふるさと」で安吾が言う「プツンとちょん切られた空しい余白」に通じるものがある、北川論の説くとおりだネ。でも作品が事件を素材にしているとか、太宰が安吾に影響を受けたとかに力点を置かない方が無難だネ。前回北川論から引用したとおり、《注目したいのは、表現としての類似性ではなく、その本質的な違い》だからネ。先行研究には、事件で殺された兄が馴染みの娼妓に「僕は死ぬかも知れない」と語ったことを強調しているものもあるようだけど、それこそ太宰を論じる資格を疑う捉え方だネ。

 事件の兄がたまたま洩らした言葉を前景化するまでもなく、太宰自身と作品の人物たちが自殺志向性を保持していたことは周知のことだ。作品の兄が「切々たる」調子で「死ぬかも知れない」と訴えながら、電話で今までにない多額な金を用意するように妹にしがみついているところには、タダならぬ決意を読み取ってもいいだろう。父が井の頭公園に現れるのも突然ながら、これも父が何らかの決意を抱いてのことだろう。あとは父が息子を「パチャ」とボートから突き落としたのか、兄が自ら飛び込んだのかは選ぶまでもない。兄が死ぬことを決めている以上、死に方は問うまでもなく彼は死ぬことに決まっているからだ。(北川論が「ピチャ」から「パチャ」になるオールの音の変化にさり気なく注目しているのはさすがだ。)

 

 蛇足ながら父が殺したにしても、当初から保険金殺人を意図していたとは考えにくいのは、保険加入が2年前だからと言えるだろう。また事件では母が息子殺しの中心であるものの、作品では父になっているのも太宰らしい。マザコン(実母に限らぬ〈母なるもの〉)の太宰が息子殺しを母親にやらせるはずもなく、〈父なるもの〉に対する反発はたびたび作品に現れるとおりだからだ。

 またカフカ「変身」において、変身したザムザを結末で排除しようとする家族の中でも、積極的に動くのは両親ではなく妹であるという点で、妹が前景化されているという共通点で両作品をくくるのは疑問だ。複数のドイツ文学者が「花火」に「変身」の影響を指摘しているというけれど、「花火」の妹の言葉に不条理の響きがあるからといって2つの作品を結びつけるのは誤解の元だネ。理由もなく毒虫に変身してしまったグレゴール・ザムザの(人間)世界から切り離された絶対的孤独と、「花火」の肉親愛の過剰さからの切断とはまったく次元が異なることが読めないようでは(ドイツ)文学の研究者としては失格だネ。

 

@ だいぶ疲れたものの、まだ言い足りない感が残っているので(6)があるかも。

 『シドクⅡ』の冒頭論文「太宰文学の特質」で披露した、《同一性の連鎖》を「花火」に適用したらどうなるのかを考えてみたいけど、疲れてもう頭が回らないヨ。