【ゼミ部】中上健次「邪淫」  オンラインでも議論活発  語りの現在  「異界」のイメージ

 学大が入校できなかったのでナマ参加無しのオンラインだけながら、10名ほどの参加者で盛んな議論ができたヨ。中上の「邪淫」などどう論じることができりのか? と心配していたものの、サトマン君はシッカリ議論の元になるレジュメを用意してくれた。以下サトマン君のレジュメを中心に進んだ議論をボクなりにまとめてみた。 

 

 ほとんど先行研究が無いところに、近世文学の権威というイメージの高田衛さんが上田秋成の「邪性の婬」からの影響を前景化した論があるのだネ。いちおう秋成の作品は無視できないものの、サトマン君は高田説に従順すぎたと思う。高田説からは「蛇」の呪縛を受けておく程度で良いと思うネ、それもケイ=(「淫乱」な)「蛇」というイメージはあくまでもジュンの母親から刷り込まれたものだ、ということも忘れてはいけないだろネ。秋成の物語では「蛇」はヘビそのままであるのとは根本的に異なるということネ。

 いつも言うように《語りの現在》はいつか、それを表現する言葉がテクストから探すという原点に戻れば、末尾の段落で「いまでこそそう思う。」の「いま」だネ。それまではいわゆる現在時制で語られていたテクストが、最後の段落は「いま」の時点から反省意識を介して過去時制で語られていることを見逃してはなるまい。そこで初めてジュンはケイを「これが蛇か、と思った。」と刷り込まれた「蛇」のイメージを自覚するわけだ。ジュンは完全に支配していたと思い込んでいたケイという「蛇」に呪縛されたまま、ケイという「蛇」に親殺しという惨劇に導かれてしまったのかもしれないと気付いたのだろネ。

 《女を好きなら、家を出ればよかった。なにも女は、この女一人ではなかった。涙が眼にあふれた。》

 今さら気付いて泣いても遅いということになるのだろうけど、くり返しジュンに嘘を吹き込みながら思いのままにしていくかと見えるケイだからこそ、冒頭で「泣きも」せずに死体処理に励んでいるのだろネ。それがテクスト末尾でジュンの涙を見たとたん、事の進展とジュンの変貌に違和感を抱いて自らも泣けてきたということなんだろネ。ともあれ司会を務めてくれたエトワル君の、「水」がたくさん出てくるテクストで「水」から始まり「水」で終るという指摘はとても面白かった。

 

 結末の1文は、

 《家に火をつけ、二人を火葬にして、車で行けるところまで行き、汽車に乗り、天王寺にでも出ようと思う。》と締められる。

 これを含めて最後の3つの文が現在時制で語られているから、「いま」の意識で語られているのだろうけど、大阪に疎(うと)いボクには「天王寺」のイメージがつかめない。サトマン君が引用していた中上の「紀州 木の国・根の国物語」によれば、《天王寺は都会であり、近代であるということになろうかと思う。》ということだから、サトマン君が「境界を超えて外部(異界)へ行くという行為」と読むのは誤解の元だろネ。中上が言うように(何も小説の作者の言うことだから正しいというのではなく、ボクのイメージとして)「都会」「近代」である天王寺を「異界」と言い換えるのはマズイだろネ。むしろジュンやケイをはじめとする「路地」出身の人たちの世界こそが、《物語》にあふれた「異界」と呼ぶべきだろネ。「蛇」も《物語》世界の代表的存在でもあるし。

 

@ 意外にも長くなったので、いったん切ってから続けるネ。