【読む】山田夏樹の公房論  寓話小説

 ウクライナのことが気になってユックリ読書に集中できない状態ではあるものの、もちろん全然読めないわけではない。先日は既に紹介済みの『昭和文学研究』最新号掲載の、ナッキー(山田夏樹)の安部公房プルートーのわな」論を読んだ。未読の長篇かと思っていたら、新潮文庫『水中都市・デンドロカカリヤ』に収録されている短篇だったのですぐ読めたからだ。この文庫には「手」や「詩人の運命」(桐原書店の教科書にも収録したことがある)という名作2つも収録されているので、表題の2作も含めて充実しておりとてもお買い得なのでおススメ!

 でも肝心の「プルートーのわな」がとてつもない駄作でハナシにならない。ボクは読むに耐えない作品を論じる気力も能力もない(?)ので、本来ならナッキーの論もスルーするところだけどナッキーのものだから読んだヨ。残念ながらこれもヒドかった。というより先行研究のテクスト読解がヒドイのに、それをまともに引き受けて論じているのでツマラナイ論になっている。というのはあくまでもボクの受け止め方なので、面白がる人がいても全然かまわないのだけれど。

 オルフォイスとオイリディケというねずみの夫婦、そしてセレーヌという神話などでもおなじみの名前の山ねこが登場するのですぐに寓話だろうと察せられるだろう。もう1匹の老ねこで「死の王」という意味のプルートーが現れると《「誰が鈴をつけに行くか?」というあの有名なイソップの寓話ができたのもこの時でした。》と明かされる。文庫でわずか5ページ強でまとめられる「寓話」では、託された観念的なテーマが先行して読み応えのあるものではなくなるのも仕方ない。奥行きのない頭脳ゲームのようなテクストだ。作品も論文も楽しめないのは、ボクが頭脳を使うゲームが大嫌いなせいかな?

 妻のオイリディケが進んでネコに鈴を付けに行くのだが、いつまで待っても戻らない。オルフォイスはプルートーに妻を返すように要求すると、条件付きで返す約束をする。

 「君の後をついて行かせるが、途中決して後を振向かないこと。振向いたら、奥さんはむろん、君の命も保証できん。」

 結果は想像のとおりで「だまされた!」と気付いて振向いたとたん、オルフォイスの身体はプルートーの爪と牙で引裂かれることになる。プルートーの締めの言葉、

 「おれが悪いんじゃない。約束を破ったオルフォイスが悪いのさ。」

 

 ナッキーの要約によると敬愛する日高昭二さんは、

 《本作を含め、神話やイソップ寓話を下敷きとする「敗戦直後からの一時期」の一連の作品を、安部の「寓話の時代」とし、「人間にとっての「始め」の場所を読み替え」る行為とする。》と本作の論のレールを敷いたとのこと。初期の安部にそんな時代があったとは初耳だけど、この路線に沿って後続するたくさんの論が展開して行き、ナッキーもそれに続いていくので無理して字面を最後まで追ったけど論の理解には及んでない。

 ナッキーには悪いけど、いつものように優れた論を読む楽しさを味わえなかったので仕方ない。それにしてもこんなショーモナイ作品に付き合うのは、ナッキー君の才能の無駄使いとしか思えないのだけど・・・