【身の上】父親のこと(1)春樹の父親も

記事を書いて更新するのが大変なことは記したとおり。だからスルーしておきたいところだけど、むかし話題になった未見の映画「舟を編む」を放映してるのでそれを見ながら更新するヨ。

読まずに溜まった古新聞を整理してたら3年前に(日本文学翻訳者である)エメリックさんが「村上春樹 個人史を超えて」という記事を書いていた。春樹が『文芸春秋』に寄せた「猫を棄てるーー父親について語るときに僕の語ること」という一文に絡めて春樹の父親について書いている。

春樹の父親は戦争中に3度も召集されたそうで、小学生の時に父から最初に入隊した部隊が「捕虜にした中国兵を処刑した」と聞かされてショックを受けたそうだ。ちなみに私と春樹は同年齢だけど、私の父は戦争に行っていないから戦いの話は無論聞いたことはない。父は徴兵検査に行ったものの日が暮れるまで色盲険査だけはパスすることができず、戦争中は引け目を覚えながらツライ目にあったのではないかと察している。そのことで祖父母と口論していたのを2度見かけたこともある。それはそうと父が色弱だったため、絵画の宿題が出ると絵が好きな父はむやみに手を入れたがって、人間の腕を紫色に塗られたことは今でも覚えている。

父が戦争へ行かずに済んだお陰で私が生まれることができたわけだけど、祖父が40代で逝去したので母と弟妹5人を養うため、小間物屋から分家した祖父が始めた靴屋を受け継いで働き続けたのだから、それだけでも父には心理的には頭が上がらずじまいだった。もちろん反抗期には家族の誰とも3年間以上口をきかずに通したヨ。大学2年目でやっと和解できたけど、自分の「和解」論にはそのことが反映しているかもしれない。小学生時代から私の成績が異常に優れていたため、父は始終「トンビがタカの子を生んだ」とからかわれていたものだけど、両親とも不義を働く類の人じゃないから2人の遺伝子は確実に私に受け継がれるているのは間違いない。困っている人に寄り添う姿勢で生きているのも、両親の遺伝を強く意識することが多々あったしね。

親代わりに弟妹を育てたから、弟妹たちが父(と母)を信頼しつつ絶対的な服従(言葉が強すぎるけど)の態度で親しんでいたね。とにかく夫婦で弟妹たちの世話をし続けていたので、実家にはよく叔父が子供たちを連れて遊びにきたものだ(叔母は40過ぎまで結婚せずに留まり世話になり続けていた)。弟の2人は戦争に行っているので父としては引け目を意識していたかもしれない。戦争へ行った者は人間がスレ切っていて、概して他人を出し抜いても平然としている人が多いので信用できないという印象が強い。春樹の父親は3度も戦地を体験しながらも、強烈な殺人を見かけたためかスレずに済んだのは何よりだったと思う。(未了)

 

@「舟を編む」だけでは書ききれずに昼寝をしたし、間をおいて夜は「ワイルドライフ」で小笠原のサメを見つつ書き続けたけど不十分なまま終わりそうもないから、いったん中止するヨ。