昭和文学会、その3  辺見庸  開高健  大江健三郎  吉本隆明

昨日(13日)の法政大院の授業感想どころか、先週のもまだ記してないことに気付いて猛省しています。
のみならずヒグラシの呑み部の記録は記したものの、ゼミの感想もまだだったのでボケを改めて自覚したところ。
にも拘らず、先日長い学会感想にも飽き足らず新たに書き始めていた「その3」の方を先に仕上げておくのは、前に書いただけではボクの考えが十分に仲井真クンや辺見庸さん(読んでないだろうけど)、それに先日の記録を読んでくれた仲間たちが十分納得してくれていないかもしれないので、さらに説得の言葉を付しておきたいためだ。
書いておきたい大事なことがあるのだナ。


仲井真クンの発表についてというより、辺見庸の作品についてさらにシツコク記しておきたい。
学大を退職した頃からは『立教日本文学』をもらってないので、会場で発表者紹介の時に言及されていた仲井真クンの近作論文は未読ながら、たぶん「いくみな」ほど出来立ての作品ではないものを取り上げていたものだろうと察している。
沖縄文学なら現代日本文学を代表する目取真俊や、仲井真クンが立教の学会で発表したことのある崎山多美の作品を論じていれば、作品の言葉に力も切れ味もあるから論文を書いても無難だろうし、論も価値あるものとして残るだろう。
しかし「いくみな」のような真新しい生ものは、おおむね大きな危険が伴うものだ。
ボクだけの判断とも思えないけど、作品としてネガティブなことしか思い浮かばないのは致命的だ、ダラダラと書き過ぎだしもっと寝かせて発酵してから作品にすべきなのに、素材を生のまま垂れ流してしまっている印象が強すぎる。
これじゃあ金無垢の私小説と同じで、素材のナマナマしさを伝えて終りじゃ文学とは言いにくい、表現の面白さの価値も生んでないし。
前にも記した通りテクストのひらがなを漢字に書き直したら意味が伝わりやすくなるけど、その分だけ表現の面白さ(ひらがな表記もその1つ)がなくなって代わりに事実のナマナマしさが伝わるだけだろう。
問題は「いくみな」の場合のひらがな表記が文意を伝わりにくくしているだけで、表現の面白さを生み出していないことだ。
事実の生々しさをストレートに出してしまったら、ナマナマしい事実の印象だけが残って文学的には薄っぺらになってしまうのだ。
私小説に対するネガティブな決めつけ方を使えば、「楽屋話」はツマラナイし文学性を感じないのだナ。
関谷一郎小林秀雄論で「Xへの手紙」が小説としては評価されていないのも、批評家の「楽屋話」に終わっていて表現の面白さ(事実離れをした虚構の説得力)が創造されていないからだ。
「いくみな」の「楽屋話」は作者の父親が日本の中国大陸侵略の際に、中国の民間人を殺したという事実を暴いて己が人殺しの子供であろうとすることによって、殺さずにはいられない人間の宿命的な罪障館感を受け止めようとしたり、武田泰淳が「審判」では殺してないと書いてはいるものの、ホントは殺していたという資料があると知って動揺している姿だ。
一見誠実な姿ではあるものの、いささかグロテスク過ぎて楽しめない。
そもそも父親が何も語らなかった(辺見が聞こうとしなかった、というより聞けなかった)のは、殺したとすればなおのことそれを自分の胸の内だけに止めて死んでいこうとしたのだろう。
人というものはそういうものではないだろうか?
あえて殺したことを言いふらす必要もないし、自分が語れば他の同罪を抱えている人間が追及される可能性があるから黙って死んで行ったのであろう。
(ここで高見の見物に終わらないように、敢えて自分の場合を付しておくと)ボクの父親は色弱のせいで志願したにもかかわらずに戦争に行けなかったことに引け目を感じていたものと察している。
色弱検査で落とされた屈辱を抱いていたのは、父が何も知らない人から「どの戦場にいたのか?」と問われた時に、色弱検査用紙の数字が読めなかったので、検査官から「オメエは身体はシッカリしているのに、これを読めねエのか?」と残念がられたと応えていたのを、幼い頃に横で聞いていたから知っている。
小学校の絵画の宿題を描いていると、描くのが好きな父が奇抜な色合いのクレヨンで手を加えるのでエラク迷惑したものだった、何せ人の腕を薄紫色にされたりしたのだったから。
でも直接父親に戦争体験を質そうなどと思いもしなかったのは、父の苦しさを分かっているつもりだったからだ。
祖父が45歳に早死にしたお蔭で、長男として弟妹のために早くから働いて養ったただけでなく、兵隊に行ったすぐ下の弟2人が無事帰ってからは未熟なボクには理解できないほど寛大だった理由が、たった今になって分かる気がしてきた(辺見庸のお蔭だネ)。
父親が語らずに死んで行ったのなら、辺見はあえて問わずに済ませればいいではないか。
泰淳が実際は殺していようが、作品で殺してないと記しているならそれこそそれで十分だろう。
問題は「審判」という作品が読むに価するかどうか、だから。
殺した事実を記したノート(?)を残したのは人間としての泰淳の「自分に対するどうしようもない正直さ」であって、「審判」を残したのは作家としての泰淳で両者を混同してはならない。
作家が発表しようとしなかったものを探り出し、大騒ぎするのは週刊誌の記者に任せておけばいい。
生きるための苦労話や、小説を書くための苦労は「日記」に書いて秘しておけばいいのであり、泰淳はその「日記」に当るものを暴露されてしまったのでカワイソーでもあり、暴露した者に対して怒りを感じるばかりである。
作家が勝負するのは作品においてであって、「楽屋話」や「日記」の内容の奇抜さを競っても無駄なだけ。
辺見庸武田泰淳の墓を暴くヒマがあるなら、素材を虚構化できなくなった作家としての衰弱のままに「いくみな」などを垂れ流さずに、感動できる小説として創り上げてもらいたいものだ。
最初に記したように、辺見庸は作家としての才能は感じたことがあるので、辺見が辺見の「審判」を創造してもらいたいばかり。


シツコイようだけど、もう1つ。
若い頃に吉本隆明の批評で(表題不明)、開高健の「南ベトナム従軍記」や大江健三郎ヒロシマ・ノート」を頭ごなしに否定したものを読んでぶったまげたことがある。
開高は読んでなかったけど、幼い頃に見た映画からヒロシマを引きずっていたボクとしては、「ヒロシマ・ノート」をそこまで貶(おとし)めなくても良かろうものを、というのが素直な感じだった。
敬愛するリュウメイの言うことでもあって反論できずにいたけれど、今になってみると(加齢とともに?)吉本の評価が分かるような気持でいる。
吉本は開高の書で、身近で殺人がなされている場面に接して吐き気に耐えられないことを記している箇所を、たしかグロテスクという言葉で批判していたと記憶する。
そんなグロテスクな体験をするためにわざわざベトナムなどに出かける開高の気が知れぬ、という論調だったと思う。
今のボク流に言い換えれば、「南ベトナム従軍記」は週刊誌的ネタでしかなく(あるいはルポルタージュ文学になっているのかもしれないけれど、未読だしこのジャンルには興味も無い)、「日記(ノート)」として発表せずにおきながら「輝ける闇」だけを発表すれば済んだのだと考える。
リュウメイの有名なエピソードを振り返っておけば、軍国主義少年だった吉本が敗戦の際に下宿の部屋で泣いていたら、下宿の小母さんから励まされて気を取り直すことができたという。
リュウメイお得意の「大衆の原像」ここにあり、といったところか。
吉本少年が辺見庸のようにグジグジと己の反省的意識に閉塞していた時に、大衆はハンセイなどに閉じこもってしまわずに戦後の生を生き始めたというショック体験である。
辺見庸はグロテスクな事実に閉じこもろうとしないで、優れた文学的な表現によって自分を世界に向かって開いて行くべきだろう。