【読む】意外に面白かった大城立裕「カクテル・パーティー」再読  《二人称小説》  (訂正あり)

 毎週木曜日にヒッキー先生の指導で行われる昭和ゼミで、ナオ(近藤直子)さんが「カクテル・パーティー」で発表するというのでレジュメの初稿を読ませてくれた(一昨日)。ボクがブログで《二人称小説》だからという理由で倉橋由美子『暗い旅』(河出文庫)をゲットしたと記したのを読んで、レジュメを送ってくれたのだネ。というのは大城立裕の「カクテル・パーティー」の2章のうち「後章」が「お前」と語られる《二人称小説》になっているからだ。「前章」がフツーに「私」という一人称で語られているのに、章が変ると突然「お前」という呼びかけの形で語られる不思議な作品だ(さらに末尾近くになると戯曲形式になるけどここでは触れない)。

 そもそも「二人称小説」という言葉を知った時から(知った契機は以前書いたからくり返さない)、ボクは奇異な印象を抱いていた。「お前」と言おうが語っているのは一人称の「私」なのだから、語り手が自身を「私」と自称しないだけなのだから「一人称小説」の変形というだけの話じゃないか、わざわざ「二人称小説」などと分類する必要などないとボクは考えたのだネ。放送大学のテキストに例示されていたビュトールの「心変わり」(清水徹訳=岩波文庫)を(途中まで)読んだけれど、「きみ」と語られる必然性は感じられなかったナ。

 

 実は「カクテル・パーティー」を学大と立大の大学院のゼミ形式の授業で取り上げたことがあったのだけど、「後章」が「お前」語りになっていることなど忘れていたのだからトシはとりたくないものだ。沖縄文学では後になって目取真俊(これも何度かブログに記したのでくり返さない)に出会ったこともあり、ボクの大城立裕に対する評価が高くなかったこともあって授業で「二人称小説」が話題になったのかどうかさえ覚えててない。しかしナオさんのレジュメを読んだら数え切れないほどの先行研究の中には、「お前」をめぐる議論も少なからず含まれていたのだから昔の授業でも話題にならなかったとも思えない。

 それらの先行研究を吸収したナオさんの柔軟な脳(ボクとほぼ同年齢なのに)と意欲には頭が下がるばかりだけど、レジュメにはジュネットバンヴェニストの議論も視野に入っているのもスゴイね。というわけで「二人称」についてボクからは何も付け加えることが無かったけど、ゼミではどんな議論になったのかな? チョと難しいテクストだけど、後輩たちにはとてもイイ勉強になったと思うネ。

 若い人でも1995年の米兵による沖縄の少女暴行事件は知っているだろうけど、作品執筆のきっかけになったのは55年の米兵による6歳児に対する暴行殺人事件だったという。文学的な興味からのみならず、歴史的な関心からでも「カクテル・パーティー」を読んでもらいたいネ。岩波現代文庫に収録されているそうだヨ。

 

 ナオさんのレジュメの末尾には、テクストでは中国語や英語については言及されるものの沖縄語が排除されていることも考えてみたいとあった。これも鋭い着眼だと思う。そもそもテクストが最初から「ハウスたち・ボックス・ヤード」などと語りの中に英語が自然に取り入れられているのは、沖縄に住む「私」たちの言語がアメリカに侵略=レイプされていることを示しているのではないか。犯された娘がアメリカ人に英語を習っているのも想起されて刺激的だ。ナオさんの指摘している沖縄語がテクストでは抑圧されているとしても、その様相を考えるのも確かにまた刺激的ではある。

 

(訂正) ナオさんの発表は昭和ゼミではなく、大井田先生が顧問の大正ゼミだったそうです。