【状況への失言】全共闘運動  無意味な赤軍派の暴走(訂正版)

 ブログの更新が遅れたのは、しばしば質問される全共闘運動についてまとめておこうと考えたためだヨ。

 

 東京新聞は1月17・18日に「100年の残響ーー日比谷野音 story 」という記事を載せていてチョと驚いた。およそ四半世紀前の1969年の1月18・19日が東大安田講堂バリケード封鎖が機動隊によって解除された、学生運動の歴史に残る日なので取り上げたのかと思ったら、同年の9月5日の「全国全共闘連合結成大会」が《学生運動が大きく転換していく過程で象徴的な集会だった》ので取り上げてほしいという読者の要望に応えたのだという。

 入学した68年4月早々から全共闘運動の準備段階から関わっていたボクとしては、この集会はあまりピンとこないものなのだネ。理由を考えて思い付いたのは、夏に35日間の周遊券で北海道テント旅行していて、9月早々帰京したためではないかということ。一緒に旅をした友人・木邨雅文が故人となっているので確かめようがないけど、少なくともこの集会に至る流れがまったく思い出せないからしばらく東京を留守にしていたせいだろネ。(一緒に旅をした人が亡くなると、その旅の思い出が宙に浮いたようで虚しくなるものだネ。)

 もっとも、1年前の夏ではクラスで1人バリケードを守る所存で東京に残っていたのに(実家の家族とは交流を絶っていたせいもあるけど)、全学のバリケードが解かれて授業が再開されていたので行き場もヤルこともないので、木邨クンの企画にのって北海道へのロマンの旅に出たのだネ。ロマンとはいえ観光地を回って夜になればその場でテントを張って眠り、朝夕の食事はインスタント・ラーメンだったネ(米だと荷物が多くなるという木邨クンの判断から)。支笏湖の奥で朝目覚めて案内書を見ると「熊が出るから気をつけろ」と記してあったり、釧路湿原の真ん中で大きなやぶ蚊に一晩中苦しめられたと木邨クンに言われたり(ボクは熟睡)というアブナイ旅でもあったヨ。

 

 ともあれ9月の集会以前に、ボクの中では全共闘運動は終っていたという感じだったネ。というか全共闘運動は学内問題を解決するための大衆運動であって、政治(革命)運動ではないと確信していたのでやることも無かったのだネ。メンドクサイ日常的な学生の自治活動などは民生(共産党支持学生)に任せておいて、いざ闘う時になったら民生を追い落として学生を主導すればいいとホンキで思っていたヨ。しかし全共闘運動は革命を目差していた全学連諸派とは一線を画しているという自覚が明確だったので、全学連のどの組織にも入らずに距離をとりつつも、諸派のデモが企画されれば賛同できる場合は参加していたヨ。だからけっこうデモに忙殺された感もあったかな。

 18日の新聞記事では、この集会に赤軍派がデビューして機関誌を売りまくったり、分派した元の組織であるブントの主流派と会場でもみ合ったとあるけど、「最高幹部」の重信房子は無知な目立ちたがりとしか見えなかったので軽視していたヨ。重信が国外に逃れた後に「最高幹部」になった永田洋子のワガママと強烈な嫉妬心から、浅間山荘事件までの山中における仲間へのリンチ殺人がくり返されたのは周知のことだろう。無実の仲間が無駄に殺されないためにも、真っ先に永田洋子こそが殺されるべきだったのだヨ。永田洋子こそ革命運動史上の恥部だ!

 左翼に限らず右翼でも急進的な運動では、より過激な方針を唱える方が仲間からの支持を集めることができるものの、現実離れした過激で自閉的な方針を陶酔して実行するものだから自滅に終ることがほとんどだ。彼らの念頭には例えばキューバ革命が理想化されていたのであろうが、先進国日本と最貧国だったキューバとの差異が認識できない程度の知能レベルの仕業だったと言うほかない。

 赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、テルアビブにおける発砲テロ殺人事件などは無知な連中が《戦略》(深慮遠望)もないまま、目先の《戦術》に陶酔して周囲に迷惑を振りまいているだけだと見ていたヨ。三島由紀夫が当時の学生運動の盛り上がりに対して、「諸君が天皇と言ってくれれば共に闘える」と言ったと伝えられるけれど、三島の最期も赤軍派の自己陶酔に似た自己完結ぶりに終ったネ。

 両方とも良い子の皆さんはマネをしてはいけません!