高見順体験はいかが?

 たぶん入りにくいヒトもいるだろうと察せられる高見順文学だけれど、魅入られたイイダ姫はともあれ、ニシムラ君はさすがに消化できていて二人の発表が議論を誘発しました。昭和十年代の作家として括られる高見や太宰、そして石川淳(や伊藤整等)が「説話体」と呼ばれる語り方(身体性を持った語り手の登場)をする理由とその味わいが興味をそそる(とボクは思う)。彼らが先祖がえりのように「説話体」を選び直した理由と、日本特有の私小説が栄える問題をリンクして説明してみたのだが、いずれ論文化できればと漠然と考えている。
 次週は「嗚呼いやなことだ」。リンサイ・川瀬のようにテキストを持ってないヒトは、至急関・弥一郎まで。その他のテキストをもらってないヒトも。