東京学芸大学は腐敗の道を選ぶのか?

 以下は学生の自主ゼミが毎年出している機関誌『青銅』に載せた文章である。
あまりの忙しさで、このところ学内で大問題になっている(そんな自覚はないか?)特任教員の任期延長問題に関する自説をブログで展開できずにいた憾みを、学生の雑誌への寄稿を機会に発散させてもらった次第である。表題は「学芸大学は腐敗の道を選ぶのか?」だったが、それに「東京」を付したものである。もっと早く載せたかったのであるが、この機関誌が卒業式の日に販売されるので先走っては公開できず、今日になったのでクソッタレどもが邪推する体の他意は無い。
 ちなみにこの機関誌は本来500円(以上)で販売しているものなので、ここに公表すると売れ行きに影響しかねない。願わくは、機会があれば500円(以上)のカンパをお寄せ下さい。私の駄文は毎号掲載されているので、バックナンバーの要望があればその旨をお寄せ下さい。
                          

 生涯で一番忙しい年を送っているような気がする。理由を並べている余裕もないほどで、この『青銅』の原稿も急ぎ足で書かざるを得ない。それも当面の問題を語ることで済ませてもらうしかないが、学大の存亡に関わることだからタイムリーではあるだろう。以前『青銅』第三四集に「大学の教員、なんぼのもんじゃ?」と題して、学生処分にウツツを抜かす大学教員どもにモノ申したことがあったが、そのシリーズだと思ってくれればいいだろう。
卒業記念にはふさわしからぬ表題ながら、読んで学大の「腐敗」が進行する前に去ることができる幸福を噛みしめてくれればいいのだし、在校生には「腐敗」を止めるべく立ち上がらないと学大はますます居心地の悪い所になると警告しておこう。学芸大学に長〜いこと勤めたネモチャン(根本さん)も指サックさん(有策さん)も、去る時に「学大はもういいヨ」と未練が残らない言い方をしていたのが淋しく思い出される。三年後に定年を迎える私もまったく同じ思いなので、お二人の気持が今さらながらよく分かる。
 
 目下の問題とは既に「関谷ゼミブログ」には記したことではあるが、それをただ繰り返しても芸がないので、教員の、あるいは人間の在り方や諸相に話を拡げながら書けば「教育」的な効果が期待できることと思う。ブログでの題は「上×××特任教授延長は<老害>のもと」だったが、昨年定年を迎えながら今年度は特任で本学に来ているこの上某氏にまつわる問題である。学生にチョー人気のある山田有策先生にも(嫌がるのを説得して)定年後一年来てもらったのが、この特任制度である。特別な場合を除けば一年間という限度があったものが、一般教員の知らぬところで五年まで延長できるように変更されていた(きょう日、この種の「民主的」な専横がまかり通っているのが学大の現況)。
去る十二月の教授会で来年度の特任教授の一覧が配布されたのだが、確か四人の名前があったと思う(資料は回収されるので手元にはない)。その中の三人の方は比較的若い世代で、もちろん国語のスーパー先生である廣川先生も含まれている(あちこちから引っ張りだこの廣川先生なのに、空席の専任にできないのが昨今の学大執行部の見識の無さ)。ただ一人、上某氏は定年後の特任なのに二年目に当たっている。特任が五年まで延長されたことを知らされてない私(達)は、「また汚ねェことをやりやがって!」という直感が働き、発言を求めた。前ふりは「他の若いお三方には異論がないが、上某氏は既に「お約束」の一年を果たしたのだから、他の教室同様に若い方に道を譲るべきだ。」というもの(テープの記録で確認しても大差ないはず)。付帯意見として、上某氏が(特任)教員として如何にふさわしくないかを述べた。
1 専門分野で特化されるほどの業績があるとは聞かない。(あるならご教示願うとブログにも書いたが全く反応なし。)
2 上某は以前、学内のある委員会の長を務めていた際に、人文系のある講座を存在させなくするためにデマを流し、それを一教員に暴かれて委員長を降ろされたと聞いている。人間として、あるいは教育者として適格ではないと考える。
右の疑念について、学内外から説明・反論はまったく届いていない。
特任延長制とはあまりにも上某氏のために作られたような臭いがしたので、教授会では一年前に特任を終った方(有策先生のような)にも適用できるのか? とからかい半分で質(ただ)してみたが、案の定それはダメだという事務の説明。二千人規模の学会のトップに選出されるほど研究者として評価され、教育者としても、そして人間としても優れている有策先生が延長されずに、正反対の上某が延長されてしまうのが今の学大(とはいえ有策先生は延長など断ると思うが)。ブログには、定年後の特任教員の五年延長は定年延長に等しく「老害」をもたらすから即刻廃止しつつ、上某氏の延長は許されるべきではない旨を強調した。意外にも多くの反応があり、中でも卒業生から「イチロー先生が相変わらず直球勝負で頑張っている姿に励まされる」というメール(賀状だったかナ)には、こちらが励まされたものだ。
 もちろん同僚からの共感も寄せられ、たまたま一月の教授会に向かう途次でも「あなたが前の教授会(とブログ?)で言ったとおりで、特任延長は定年の延長につながるので良くない」という危惧を、他講座の普段は慎ましい先生から聞かされてチョッと感激。まんざらショーモナイ教員ばかりじゃない、学大はまだまだ捨てたもんじゃないと思って教授会で前回の議事録を見たら、私の発言には一切触れてない。これも想定内なので疑義を呈したら、意外にも「関谷先生から疑義があった」程度の修正でいいかという議長の応えだった。イケてる議長だナと感心したものの、やはり反対意見が出た。むろん賛成の意見も出て学大に希望が持てたが、反対意見のお粗末さには幻滅させられるばかり。呆れた発言を二つ。
 一つは五年延長を決めた委員会に出ていたという前副学長で、文句があるなら決めた委員会(執行部?)に言うべきで教授会では黙っていろという趣旨。今さらご教示のとおりにしても無駄なのはよくある手口で、最近の学大で流行っている「民主的な専横」の現れと言ってよい。上某ほど悪人ではないものの、権力好きでは似たもの同士のこの御仁が学長に選ばれなかったのが、せめてもの幸いというもの。さりとて爽やかイメージとはいえ、現学長に期待しすぎるのも無駄事だろう。
 二つめは耳を疑う種類のもので、「関谷の疑義は前回おおむね却下されていた」という言い方だった。そんな単純なことなら、議事録の記し方は学系長と議長団が次回まで検討し直すということにならなかったはずである。私の疑義に対しては教授会で賛成意見も出ていたし、その後も種々の形で共感を告げられているのに拘わらず、である。忘れているならただのバカだろうし、トボケているのなら上某同様の政治ゴロ(ツキ)でそのミニチュア版だろう。思い出したたのはこの御仁、一昨年だったかの学祭の野外コンサートにおける恒例の噴水ジャンプを止めに入り(大の音楽嫌いで知られているのだから大学に来なければいいものを)、無謀で危険な行為から学生を救ったと勘違いしていたこと。その上、教授会で自らの「英雄」的行為を報告し、学生を非難しつつ野外コンサートを禁止にまで追い込んだということ。(その際も学生の音楽活動のために発言した馬場先生のような人がいることも、学大の希望ではある。)
 つまりはまんざらバカでもなく、思い込みが強すぎて現実を捉える能力に欠けているのであって、トボケているわけでもなさそうだということである。怖いのはこういう型のニンゲンで、言動が狂信的になりがちになり何を仕出かすか分からない。野外コンサートの時のように偏見に憑かれたまま暴走すれば、普通の人でもユダヤ人に対するヒットラーになり得るから怖い。学生諸君も教育現場に行ったら、せいぜいその点の自己検証を怠らないで欲しいもの。誰にでも好き嫌いがあるのは仕方ないが、特定の生徒に偏見を抱くと、自分では意識できない中に生徒を追いつめてしまうことになる。気をつけてくれヨ!
 さて特任制の延長に関する、教授会騒動のオチをつけなければならない。二月の教授会で議長が、十二月の議事録に「関谷先生から発言があった。」と付け加えたい、と言ったので大苦笑。笑ったのは私だけではない。事情は知っていれば誰でも笑うしかあるまい。これ以上突っ込んでも嶋中学系長や議長団を苦しめるだけなので、「納得はできないが、もういいです。」と引き下がった次第。

 ただ定年後の特任延長五年は明らかに定年の延長ということであり(給与は安いが)、七十歳まで教壇に立ちうることになる。むろん八十過ぎてもボケない人もいることは否定しないが、大方の人間が七十近くなれば周囲にとっては「老害」をたれ流すことになりがち。だからこそ学大でも東大でも定年を延ばしても六十五歳までだったはず、一橋大のように六十三歳を守っているのはスゴイ見識と言うべきであろう。私立大では昔ながらの七十歳定年を続けているところもあるようだが、友人・知人から聞くかぎりでも「老害」を防げてはいない。
今の学生は知らないであろうが、昔慶応大学に池田弥三郎という大学者がいた。この人のエライのは、七十歳定年を早めるために制度改革をし、自分がまっ先に辞めてみせたというところ。大人物でもあったということで、特任の地位にしがみ付こうする小物(上某に限らない)とはスケールが違う。研究者としても感心したのは、前橋高校時代の友人で慶大院生だった金井広秋(こいつは高校一年生の頃から教員の度肝を抜くようなスゴイ文章を書いていて、彼に比べれば同級生の糸井重里など当時はチンケな存在だった)が研究発表するというので、他大学の学部生だった私が殴りこみ参加したことがあった。教育実習中だったので遅れて行くと金井の発表は終っていて、年配の院生が「万葉集」の発表をしたのを聴いた。せっかく来たのだからと、大胆にもその発表に対して質問をしたが思ったとおりで答えられない。代わりに池田先生が見事に私の疑問に答えてくれたので驚きつつ、スゲエのは秋山虔だけじゃねェ、と感動したのを還暦過ぎた今でも覚えている。
 
 最後にブログで言及した、前橋高校時代のスゲエ先生だった須関正一先生について記しておきたい。特に目立ったところのある方ではなかったので、同窓生にそのお名前を感賞してもピンとこないことと思う。教育者、あるいは人間の大きさは表面には現れにくいものだからかもしれない。とにかく私が接した先生の中で、これほど大きな教育者はいなかった、大人物である。小中学校時代をとおしては、戦後のドサクサに紛れて教員になった人も多かったためか、殆どの人が小人物・小人ばかりだった。「不良」を輩出した名うての中学にいたせいか、高校に進学したらイイ先生が多いのでさすが「名門」だと驚いたものである。糸井も取り巻きの一人だった「東大出」の名物教師・亀山貞夫先生(保健室に逃避すると、たいてい職員室から避難していた亀山先生に会ったものだ)も反骨のユニークな方だったが、二年生に進学した時の担任の須関先生の挨拶の言葉には、いたく感銘を覚えたものである。
 
  私は軍隊に行っていたのだが、教員になってからは軍隊で見た二人の班長の在り方を対照して考える。一人の班長はいつも部下のことを大事 に扱い、部下の非を自分がかぶって上官から殴られたりしていた。もう一人は典型的な日本軍の古兵で、他人を犠牲にしても自分を守るよう  に、薄汚い生き方を徹底的に教え込んでいた。優しい班長もいいが、戦争が終わってみると生き残って帰ったのは古兵班長の部下ばかりだっ  た。自分はどちらのやり方で教育して行ったらいいのか、いつも迷っている。

 教育の道を選んだこの関谷自身も、いつも迷ってきた課題である。深い言葉ではないか!
卒業して何年も経ってからご自宅にお邪魔した際にこの話をすると、「オマエはそんなことを覚えていてくれたのか。」と先生はとても感動してくれた。そのお蔭か、夜は初体験の料亭なる所に連れて行ってくれた。オナゴ衆は決して美人ではなかったが、先生と共謀して演歌の作曲家になりすまして(なぜ着ていたのか、黒のスリーピースに赤いネクタイだったのが効いた)愉快に呑んだ。「オマエを作曲家と信じたらしく、いつもより安かったゾ。」と言った先生の笑顔を忘れない。朔太郎が詩った広瀬川の橋の上で、二人の酔っ払いは別れた。
須関先生の偉さはそれだけに止まらない。先生がいつも私に言ってくれたのは、「セキヤ、丸くなるなヨ。」という、もう一つの「深イイ言葉」。高校生まではそれほどトガッていたとは思えないのだが、在校中も卒業してからも言ってくれるので、オシッコが漏れるくらい嬉しい。自分が理解されている! という悦びで満たされるのである。大学に入ってからはトガリ出し、全共闘運動を担ったのは当たり前、専門課程に進んでからは師匠によく楯ついたので「早稲田でもどこでも行きなさい」と優しい三好行雄に言わせてしまった。それでもヘルメットをかぶり、棍棒片手に三好先生をバカ呼ばわりした山田有策に比べれば罪がない。(私が入学した時、指サックさんは既に院生全共闘だったので面識はなかった。)
 還暦を過ぎた私が、このところ妙に吠えていられるのは、「セキヤ、丸くなるなよ。」という言葉に励まされるお蔭だと改めて感謝を捧げている。私も七年間いた定時制高校と大学で接した生徒・学生に、記憶に残る言葉を残せればいいのだが……

 ここで終ってもいいのだが、須関先生から受け継いだ課題に対するいちおうの解答を付し、諸君のヒントにしてもらおう。人権尊重で優しく対処するか、目的を達成させるために厳しく対処するか、どちらか一方を選ぶ択一の問題ではないと考えている。ユル過ぎてもキツ過ぎても良い結果は出ない、といういつもながらのイチローの広角打法の勧めなのだが、これがまた難しい。