モダニズム文学  焦点化

前回の分の更新が間に合わずに申し訳ありませんでした。
このところあれこれと他の所用が重なり、時間が取りにくいのでツイ。
でも取り上げる作品が先週と変わらないので、その点では問題無かったようですが。
今日は帰宅する前に書き込みます。
記し忘れないうちに先に言いますが、来週は「転向文学」への流れで太宰「魚服記」を中心にして、ついでに井伏鱒二「鯉」の読み方の意見も聞きます。
先週からモダニズム文学を詳述してますが、日本では文学というと小説が偏重されているおかげで、文学史も詩歌が軽視・無視されがちです。
実質では小説の新感覚派よりも、詩歌で未来主義・ダダイズム・シュール・レアリスム(仏語だからリアリズムとは言わない)・構成主義その他のモダニズムが活発だったので、詩集や雑誌の資料を回覧しながら紹介した。
もう一つ大事なことで、最近までは「視点人物」という言い方・理解の仕方が普通だったが、しだいに「焦点化」という考え方に移りつつあるので知らないと困ったり恥をかいたりするから学んでもらいたい。
ジュネットの理論によるものだけれど、そもそも理論(文学理論は特に)というものは歴史的なものなので、洗脳されてそれだけが「正しい」と思い込むのは間違いだから要注意!
ジュネットが支持されて流行っているというだけで、焦点化を説く『物語のディスクール』でも腰が引けた物の言い方が所々で目立っていて、理論の体系化の困難さがにじみ出ている。
勢い細分化されていくので、「内的焦点化」も「固定」「不定」「多元」の3種に分類せざるをえなくなる。
授業ではテキストの収録作品を、ジュネットの分類法によると何に当たるかを考えてみようという大胆な試みをしているので難しくなる。
例えば「内的固定焦点化」の例として「夏の靴」を位置づけるとか。
そもそも欧米言語の文学についての理論を、日本文学に当てはめようというのだから、根本的なところで無理があるというのは日本ではいつものこと。
「焦点化ゼロ」にしたところで、日本文学では典型的なものは無い。(かといって欧米にはある、という話でもなかろうが。)
よく言われるのが漱石「明暗」だが、あくまでも意識的に「焦点化ゼロ」に近づいたということだから勘違いしないように。
テキストでは「浮雲」が一番近いと思うが、そう考えたのが院生時代の越智先生に提出したレポートだと思うと、自分が進歩してないのか、昔から優れていたのかと悩んでしまう。
アホなことを記し始めたのは疲れた傾向だから、この辺で・・・