ジュネット理論  岩野泡鳴の描写論

法政大の熱心な留学生院生(中国人)の1人から以下の質問を受けたので、久しぶりに泡鳴の論を読み直して応答したやり取りが以下のもの。
理論に馴染まないボクがジュネットについて説明するのも相応しくないけれど、間違いを伝えたら申し訳ないので理解の行き届いた方からご批正いただければ幸いです。


《院生からの質問》
先生
中村美子の著書『夏目漱石絶筆 『明暗』における「技巧」をめぐって』を読んだら、以下の内容(原文から引用)に興味がある。

「岩野泡鳴は、「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」(「新潮」第二十九巻第四号〔一九一八年=大正七年十月 新潮社〕)において小説の描写における作者と作中人物の関係について、大正七年に理論立てて論じている。そこで、泡鳴は、三つの図(下の図参照)を掲げて、作者と作中人物の関係を整理している。三つのうちの第一図の場合は、作者は直接に語るもので、単純な鳥瞰的描写形式である。その左に挙げた第二図の場合は、三人称の形式をとりつつ、特定の主要人物(〔甲〕)を通して、作者が語る形式である。この場合、「作者は甲の気ぶんから、そしてこれを通して、他の仲間を観察し、甲として聞かないこと、見ないこと、若しくは感じないことは、全てその主人公には未発見の世界や孤島の如きものとして、作者は知ってゐてもこれを割愛してしまうのだ」という条件で、特権を制限されている。第三図は、第二図と同様に作者が視点人物を通して制限された語りを繰り広げるが、その視点人物を第二図のように「甲」一人に限ってしまわない。「甲」「乙」「丙」それぞれの人物を通して、それぞれの見た世界を提示する形式である。

* ここに泡鳴の図表が引かれているのだけれど、ボクの技術ではコピーして貼り付けることができなかったので、泡鳴の論を参照して下さい。(関谷の註)

 よく考えたら、ジュネットの理論は岩野泡鳴の理論によく似ているということに気付きました。第一図、第二図、第三図で表れた意味はそれぞれジュネットの「外的焦点化」、「内的焦点化」、「焦点化ゼロ」と同じ意味じゃないですか。岩野の「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」は一九一八年十月に発表されましたが、それに対して、ジュネットは一九三〇年に生まれ、ジュネットの理論は岩野泡鳴の啓発を受けたかどうかという問題に興味がある。先生の説明をいただければ助かると思っております。ありがとうございます。


《関谷の説明》
〈第一便〉
基本的な違いは前のメールに記したように、ジュネットは作者を排除して考えているのに対し、泡鳴は作家としての立場から作者が何を考えながら小説を書くかという発想で3つの図にまとめている点だネ。

泡鳴の考え方をジュネットに合わせて言い換えると、第一図について泡鳴は「作者が公平にそして直接に仲間の諸分子の気ぶんや人生を達観若(も)しくは傍観するのだ。」と説明しているので、外的焦点化に絞っているわけではないと思う。
仲間(乙や丙)の外見だけでなく「気ぶん」も達観・傍観するというのだから、仲間を内外から語るということだから焦点化ゼロに近くなると思う。
第二図については「作者が甲に第三人称を与えていても、実際には甲をして自伝的に第一人称で物を云わせているのと同前だと見れば分りよかろう。」と説明しているので、一人称小説のことだろう。
ジュネットの言葉で言えば内的焦点化と言えるだろうから、これに関しては向君の見解と同じだネ。
第三図は第二図が3つ並んでいるので、3人の登場人物がそれぞれ一人称で語るという構造の小説だネ。
例えば芥川龍之介「藪の中」だけど、未読なら必ず読むべき小説だヨ。
ジュネットの細かい分類で言えば、3種類の内的焦点化の中の「多元焦点化」ということになる(他は「固定焦点化」と「不定焦点化」の2つ)。
3人とも内的焦点化されていながら並列されただけなので、全体を統括する語り(視点)が欠けているので焦点化ゼロの(焦点化しない)小説とは言えない。

難しい議論だから、不明な点は遠慮なく質問しておくれ。

〈第二便〉
第一図については分かってくれてホッとしているけど、第三図については全然分かってないのでガッカリ!

焦点化なし―――焦点化ゼロ
  

焦点化あり―――外的焦点化
 
 同上  ―――内的焦点化―――固定焦点化

         同上  ―――不定焦点化
 
         同上  ―――多元焦点化


第三図はこの中の多元焦点化であって、焦点化されているのだから向君の言う焦点化ゼロではない。

ジュネットの本は法政大図書館では帯出中のままで読めないそうだから、土田知則他『現代文学理論』(新曜社)の解説が正確だから参照するといい。
この本はとても優れた解説書なので、去年の学生には推薦して購入した学生もいたヨ。2500円くらいかな。